2022年12月5日(月)

明治の反知性主義が見た中国

2018年10月22日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

すでに存在していた「華僑のネットワーク」

 当時の広東の状勢について、「近年盗賊の大群各地に橫行し出没常な」い状況で、当局も取り締まることはできない。そこで「商船の内河を往來する者」であっても、「小銃刀槍を備へて以て盗賊の襲撃」に対抗するほどに治安は乱れ、社会不安が増している。盗賊とはいうが、概ね兵役を解かれた兵士であり、「其凶暴なる實に良民をして寒心股粟せしむ」ほどだ。まさに「好鉄不当釘、好人不当兵(良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならない)」である。

 高橋が広東を歩いたのはアヘン戦争から40年ほど、長江以南を大混乱に陥れた太平天国の乱の終息から20年ほどの後である。アヘン戦争、太平天国の乱の後遺症が続き、「兵士の解隊せし者」が徒党を組んで「盗賊の大群」となって各地を荒らし回るなど、無政府状態は極に達していたとも想像できる。

 だが「交通の路夙に開け商業早く發達せし」ゆえに、「商業上に關する習慣等頗る見るべき者あり」として「其一班を擧」げた。

「支那商人」は、「我商人の如く生涯其郷里を離れず店頭に安坐し」て商売に勤しむのではなく、「往々巨資を擁して其利を數万里外の客地に求」めることを「商業上の本義」と心得ている。そこで「客地に於て同郷人相會して倶樂部を設け相團結して其親睦を密にし」て相互扶助に努め、外敵・外侮を「防ぐの習慣あり」。その「倶樂部」の中核が「會舘」であり、「資望ある者數人を推して會首となし以て其取締をなさしむ」。会員が故なく咎を受けたり不利益を被った場合は、「會衆一致の力を以て之を救濟援助する」。また会員間に紛争が起きた場合は、「會首」が調停に乗り出して和解工作に努める。だが「會首」の調停が不調に終わった場合は全会員が参集して事の是非を判断することになる。一種の民主主義ともいえる。

 だから遠方の見知らぬ土地で商売をしようが、孤立無援になることもなければ、「豺官狼吏の爲すに任すと云が如き悲境に沈む憂少く」、安全に商売に励むことができる。

 同郷の団結に加え、彼らは「商賣の種類に從て相互團結して組合規約を立て倶樂部を設け」、自らの「利益を保護する」。この組織を「公所となし同業中資望ある者數人を推して組合中の事を幹せしむ」と、「支那商人は獨立自治の習慣に富」むと彼らなりの商業文化の一端を捉える。「獨立自治の習慣に富み各自適宜の規約を設け頗る信實に營業する」からこそ、「慧眼敏腕なる西洋人も商業上に於ては徃々」にして商戦に敗れることがあり、勝手気儘な商売はできない。

 全国各地の主要都市では、「宏大なる家屋に」、福建会館、山西會舘、茶業公所、絲業公所、薬幇公所、書幇公所などの看板が掲げられているのを見ることできるが、それこそ同郷や同業が出稼ぎ先で組織した「倶樂部」である。

 高橋は「商業頗る盛な」る町の川辺で「育嬰堂あるを見」て、彼らの相互扶助組織の広がりを痛感した。育嬰堂とは「棄兒を養育する所にして慈善家の醵金に依」て維持・経営されている施設で、老若男女を問わず身寄りのなくなった「無告の民」を「救恤するを以て好事善擧とな」す習慣があった。都市には「育嬰堂及ひ義學等種々の善堂あり或は棄兒を養育し或は無資の子弟を就學せしめ或は醫藥を施し或は倒死を埋葬し或は粥を施し衣を給する等の事をなす」ような民間の慈善組織が活動していた。

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