「恐れ」と「侮り」の間で揺れ動く中国観
高橋は自らの観察を通じて、清国の将来を予測する。
――社会の各界各層に根を張り支持者を得ている革命党もあり、その勢力は侮り難い。だが彼らといえども「清朝を覆滅するに止」るだけで、最終的には「強國の爲に蹂躙」され蚕食されてしまうだろうとの見解もあるが、それは「支那種族の勢力と各國の關係を度外視したる無稽の言にして取るに足らざるもの」である。
そもそも「滿清政府は既に滅亡の運に近づき最早如何ともする能は」ず。その一方で「支那種族の元氣元力は既に勃々として世界に雄飛せんとする」だけの潜在能力を備えている。加えるに、世界各地に彼らの仲間である華僑が存在している。
現在、欧州の強国は国力の増大を目指し、先を争って東洋に出向いて大競争を展開しているが、どの国も利益を独占することは不可能である。ましてや「支那人は最も宗敎的感情の旺盛なる人民」であるから、「異宗敎の歐米諸國」が「支那人を主宰する能力」を持っているわけがない。
かくて、「徒に清國を懼るる者と徒に清國を侮る者は共に其事情を穿たざる皮相の論」であり、「清國は今將に破裂せんとする一大爆裂彈に似」ている。「果して如何なる奇觀を現出するか徐に将來を待て知べき而己」――
この高橋の考えを言い換えると、要するに、早晩、清朝は崩壊し満州族の天下は終わりを告げるが、反清の立場に立つ漢族によってどのような国家が出現するのか判らない。「長城以南の沃野に一大新帝國を現出するが如き未曾有の大奇觀を呈す」るかもしれないし、そうはならないかもしれない。ただ漢民族の性質からして、「異宗敎の歐米諸國」に唯々諾々と差配されることもないだろう。留意すべきは「既に勃々として世界に雄飛せんとする」だけでなく、現に世界各地に出掛けて住み着く「支那種族の元氣元力」である。
将来に確たる予測はしかねるが、目下の清国こそ「今將に破裂せんとする一大爆裂彈」であり、いずれは破裂するに決まっている。だが、どのように破裂するかは判らない。その実情を知らないからこそ、清国に対する「懼」と「侮」といった両極端の「皮相の論」を持ってしまうものだ――となるだろうか。
ここで再び「結論」の項の冒頭部分を読み返してみたい。
清国の将来については誰もが判るわけがないが、やはり「清國决して侮る」べきではない。清国政府が「鋭意して歐米の長を採り富強」に努めているから、やがて「東洋未來の覇國は清國」になるかもしれない。だが彼らは「頑陋自大」で「外國あることを知らす」という欠点を持つ。中央権力の威令が全土に及んでいるわけではないから、やはり「不具國」でもあろう。強国なのか。弱国なのか。近代国家なのか。古代国家の延長なのか。そもそも国家といえるのか。その実態は曖昧模糊としたままで判然とはしない。かくて日本を含む諸外国は、相反する「懼」と「侮」という見解の間で揺れ動くこととなる。
――高橋の考えをこう纏めるとするなら、これは我が国において高橋以来一貫して見られる中国観のようにも思える。はたして日本は、これからも「懼」と「侮」の中で揺れ動き続けるしかないのか。ならば日本と日本人にとって、彼の国と彼の地の民族は永遠に解き難いパズルのまま・・・昔も今も、これからも厄介極まりない隣人であることだけは確かだろう。
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なお、当時の日清関係に関わる人物に当たってみたが、高橋の名前を見つけることはできなかった。あるいは将来の衝突を想定して清国事情調査に当たった人物の偽名とも考えられる。いずれ高橋謙の事績については後日の調査を俟ちたい。