「内弁慶な日本人」に対する憤激
「東洋第一の良港」である上海は「其繁華熱閙の光景」に満ちていた。租界地は「繁華美麗なり就中英租界の四馬路の如きは劇場、妓院、酒樓、烟館等林をなし遊人蟻集して歌舞夜に徹す」。まさに「魔都」と呼ばれるに相応しい歓楽の不夜城だった。清閑な公園が整備されているが、欧米人のためのものであり中国人の入園を禁じられている。「居留地は宛も法英米三國の殖民地の如き有様」だ。これに対し清国人が住む城壁内は「人家稠密殆と隙地なく市街縱橫に連り道路甚た狹隘不潔」であった。
かくして高橋は「嗚呼堂々たる支那帝國も今や既に此の如し其盛時を回想すれは轉た萬里の孤客をして感慨に堪さらしむ」。はたして「支那人たる者亦此感あるや否や」。外国人である高橋が衰亡する清国を嘆き清国人に同情を寄せるほどに、彼らが「此感」を持ち合わせているとは思えなかった。
上海で高橋が関心を向けたのは、総勢で700人ほどの上海在住日本人である。
その内訳は「領事署の官吏留學の諸生及ひ純正なる商人等」が200人余りで、残る500人ほどは「總て社會に齒されさる賤業者にして大抵長崎神戸横濱等より渡來せし破廉耻なる惰民」だそうだ。彼らは体一つでやって来て「淫賣若くは賭博の如き賤業に從事し」ている。だから「國躰は固より各自の面目をも顧みさる徒にして夙に外人及ひ支那人等より擯斥を蒙れり」という。
700人のうちの500人ということは、上海在住邦人の70%強が「賤業者」に当たる。高橋は彼らを「破廉耻なる惰民」と退けるが、上海のみならず中国各地、香港、東南アジア各地に出掛けた彼らが、じつは明治期の日本の海外進出の一翼を担ったのである。
そこで高橋は考えた。
日本人は長い鎖国に災いされて海外進出を躊躇うから、勢い「破廉耻なる惰民」の出番となる。このまま「有志家若くは有力者の海外に企業する者絶て無」き状態が続くようなら、「我國勢の不振と民力の微弱なるを天下に公示する」ことになり、「我國の價値」に悪影響を及ぼす。明治維新以来、欧米人を招聘して文明開化を誇ってきはしたが、それは国内向けに過ぎない。やはり「有志家有力者の海外に出」て「衆多の外人に接」することで文明開化した日本の姿を示すべきである。依然として「破廉耻なる惰民」が「海外に橫行」することを許すなら、「我國威の發耀も誠に覚束なき次第」である。
上海という土地は海外進出を図ろうとする日本人にとって最適地ではあるが、欧米人に較べ余りにも劣勢だ。だから「我國人は實に斯の如く輕侮擯斥の中に沈淪」したままである。これからも列島に蹲り続けたなら、欧米人や清国人に侮蔑されるがままに過ぎてしまう。国内で自己満足し、海外で「輕侮擯斥」されるようでは国も国民も立ち行かない。
聞くところでは、香港、シンガポール、ペナンなど東南アジア各地でも事情は上海と大差ないらしい。かくして「何そ日本人の衰へたるや」との慨歎につながる。かくして高橋にとっての清国旅行は、日本人の内弁慶さへの憤激から始まった。
上海滞在4ヶ月の後、高橋は「支那人を假装し」て長江流域の視察に出掛ける。李鴻章が創業した近代的な海運会社の招商局経営の定期船に乗船したが、「船内の運轉士及ひ機關士等は總て外國人」だった。表向き清国の会社も、一皮剥けば外国人による経営である。
長江を遡れば、各地にそれなりの規模と可能性を秘めた通商港が認められるものの、「我商人の足跡」は及んでいない。そこで高橋は「嗚呼我國人の貿易事業に暗き」と嘆く。日本人は貿易といったら上海しか知らない。日本の商人は先を競って上海に集まるが、全国各地に「好市塲」があることを知らぬげだ。まるで横並び一線でリスクを取らない。これでは大陸全土での商戦の展開を目論む「外商」の後塵を拝するばかりではないかと、ここでも憤る。