2024年11月22日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2011年11月4日

女の子が生まれたらわが子を捨てる農村の大人たち

 では、日本と中国のモラルハザードの背景で、何が最も違っている点かといえば、それを一言でいえばそれは、危機感の程度の違いであり、「生存競争の厳しさの度合い」ではないかと思われるのだ。

 「悦悦ちゃん」事件で想起した「厳しさ」を象徴する映像で、筆者には忘れられないものが一つある。それは1990年代の半ば、香港のテレビ局が農村を舞台に撮ったドキュメンタリー番組である。もうテレビ局の名も番組名も忘れてしまったのだが、その強烈な内容だけは未だに忘れることはできない。

 その番組は、当時の中国の農村で起きていた「女児の間引き」という問題を正面から捉えたドキュメンタリーで、実際に捨てられる女の子をカメラが追い続けるという過酷な内容だった。

 問題の背景にあったのは、中国の人口生育計画である「一人っ子政策」である。当時の農村では、働き手としての男の子の価値が非常に高く、子供を一人しか生むことが許されない中国の農村部では、女の子が生まれると捨ててしまう過程もあるという話はずっとささやかれていたのである。

 その番組を観て初めて知らされたことだったが、女の子を捨てるという選択をした両親にも深い罪の意識があったということだ。そして驚いたことに両親は「子供を捨てる」という強い罪悪感を少しでも和らげられる方法を模索し、それを実践していたのだ。

 その方法とは、そのドキュメンタリーのなかで描かれていたように、自分の手で捨てるのではなく、一旦他人の手に委ねるというやり方だった。

「トイレの間、この子を見て」 他人に委ねた後に消え去った両親

 もっと具体的に言えば、その場所に選ばれるのは駅だった。そこで旅人を装って「トイレに行ってきたいので、少しの間この子を見ていてください」と赤ちゃんを見知らぬ他人の手に委ねるのだ。そして親はそのまま帰ってこないというパターンだ。

 赤ちゃんを預けられた方は、それでも出発の時間までじっと親を待っているのだが、自分が出発する時間が迫ってくると慌てて親を探し始める。だが、当然のことながら親は見つからない。最終的には赤ちゃんが置き去りにされてしまう様子までが番組のなかでずっと流れるのである。

 駅であれば行きかう人も多く、駅員や警官の巡回などもあるはずだが、そのときも「悦悦ちゃん」事件と同じく多くの人が赤ちゃんの横を通り過ぎるだけ。そして赤ちゃんは保護されることもなく、やがてぐったりとなって動かなくなってしまうという衝撃的な幕切れまでをカメラが追うというドキュメンタリーだった。

 日本人として生まれ普通に一生を閉じる人には一生縁のないような話だが、この事件もまぎれもなく中国の田舎で、また経済発展が加速する以前に起きていたことなのだ。

 つまり、経済発展で都市化する前から、中国の社会にはこうした厳しい一面が備わっていたのである。


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