茨城県出身だと私が知っていた映画人に深作欣二監督(1930~2003年)がいる。「仁義なき戦い」(1973年)や「バトル・ロワイアル」(2000年)などの暴力映画の名手だが、自分がなぜ血なまぐさい題材にこだわるかというと、中学生時代に水戸でアメリカ軍の艦砲射撃をあびて友達の無残な死を目撃したからだと繰り返し言っていた。
古い人では久松静児監督(1912~90年)が新治郡栄村(現つくば市)の出身。河合映画の大部屋俳優から帝キネ、大都映画とB級会社をへて大映で娯楽映画の売れっ子の監督となった。B級会社出身で大手の撮影所で活躍できた人は数少ないのでこれで十分の成功だったのだが、ある日、息子から「代表作がない」と批判されて心機一転、シリアスな文芸映画にもチャレンジして、「警察日記」(1955年)や「月夜の傘」(1955年)などの名作も残した。
柳町光男監督は行方郡牛堀町(現潮来市)出身で、1980年前後にはインディペンデント映画の一方の旗頭として注目された。「さらば愛しき大地」(1982年)は当時急速に農村から工業地帯化した故郷の社会状況を真剣に見つめた力作である。
小泉堯史監督は水戸市出身だ。師匠の黒澤明ゆずりのていねいな仕事ぶりで一作も駄作がない。とくに情感の美しい「阿弥陀堂だより」(2002年)、辛い話を温かく描いた「博士の愛した数式」(2006年)などがいい。
樋口真嗣監督は東京新宿の生まれだが、古河市にいたことがあり、古河第三高校を出ている。「ローレライ」(2005年)「日本沈没」のリメイク(2006年)など特撮ものの専門家として地位を得ている。
日本映画史上最初の女優と言われるのが鹿島郡豊津村大船津(現鹿嶋市)出身の花柳はるみ(1896~1962年)。1919年の「生の輝き」が輝けるその第一作である。厳密に言えばそれ以前にも女歌舞伎の役者がその役で映画に出たりしているが、本格的な近代的ドラマ作品で旧来の女形を廃して、新劇から起用された映画女優として画期的な存在であったことは間違いない。叔父に貴族院議員がいるほどの地方では名門の出身で、昭和のはじめ頃まで主に新劇の西洋もので活躍した。ファニー・フェースで動きのキビキビした魅力的な女優だったと言われている。
香川京子は現在の行方市の生まれである。もっとも生後まもなく兵庫県芦屋の自宅にもどり、小学校からは東京の池袋で育っているから茨城県出身と言うべきかどうか。しかし女学生だった戦争中には茨城県下館に疎開している。義理の叔父が新東宝の宣伝課長だったことから戦後女学校を出てすぐ映画界に入って女優になったが、当時のその清潔なさわやかさといったらなかった。成瀬巳喜男や溝口健二などの巨匠たちに注目されてその作品で大いに鍛えられ、順調にスターとなり、演技的にも大きな存在になっていることはあらためて言うまでもない。デヴュー当時の「おかあさん」(1952年)、若手スター時代の「近松物語」(1954年)が代表作。近作の「自由戀愛」(2005年)も脇役ながら貫禄のある演技である。
倍賞美津子は真壁郡大国玉(現桜川市)の生まれで、幼い頃に東京の北区に移っている。やはり戦争中に母の郷里の疎開先で生まれたのである。だから姉の倍賞千恵子は東京生まれで戦争中には一緒に疎開している。姉も松竹歌劇団でスターになって映画にスカウトされたのだが、美津子も同じコースを歩んで映画女優になった。森崎東監督の「喜劇・女は度胸」(1969年)などでタフな演技スタイルを確立し、以来堂々たる庶民の女のバイタリティを表現する役ではなくてはならない存在であり続けている。
内藤洋子は鹿島郡神栖村(現神栖市)の出身だが、幼い頃に神奈川県の鎌倉に移っている。雑誌「りぼん」の表紙が黒澤明監督の目に留まって「赤ひげ」(1965年)の可憐な娘役でデヴューした。「あこがれ」(1966年)「伊豆の踊子」(1967年)など、おデコが可愛くて良かった。