2024年4月27日(土)

栖来ひかりが綴る「日本人に伝えたい台湾のリアル」

2019年8月16日

手のひらを返すように母親を叩き始めた人々

 事件をきっかけに激しく盛り上がった「反・死刑廃止」運動に対して、クレアさんが今度は自身のフェイスブックにこう書きこんだのだ。

 「たとえ加害者が死刑に伏したとしても、小燈泡はもう戻ってこない。それよりも、一体なにが起こったのか、なにが犯人をそうさせたのかという真実を知りたい。あの子の死を、死刑推進に利用するのはやめてほしい。私は小燈泡ではないし、あなたも小燈泡ではない。誰も小燈泡の気持ちを代弁することは出来ない」

 そんな死刑廃止支持とも取れる被害者遺族の訴えを目にして、世間は手のひらを返した。台湾社会で主流・保守と言われる人々、つまり反・死刑廃止の人々が、それまで向けていた同情を言葉の刀に持ち替えて、クレアさんを突き刺し始めたのである。

 なぜか? 多くの人々にとって被害者家族、とくに被害者の母親というものは「悲しみで家の中に閉じこもり沈黙する」、もしくは「半狂乱になって犯人の極刑を求める」のが正しい姿とされているからだろう。

 「娘を目の前で亡くした母親らしからぬ」態度のクレアさんに対し、世論は呪いの言葉を投げつけた。とある議員は、クレアさんを「被害者家族として調査・研究に値する精神的疾病」と病気扱いした。多くの人にとって、「こうするべき」「こうあるべき」というレッテル貼りが覆されるのは、本物の暴力と同じぐらいに恐ろしいということが改めて表出した。

 そうして、犯罪者に極刑を求める世論の高まりは、ひとりの男の望みをかなえる事となる。小燈泡事件から25日後、世論に押されるようにして台北MRT無差別殺傷事件を起こして裁判中だったTの死刑が決まり、判決が言い渡されたわずか18日後に死刑が執行された。Tは生前、検察の取り調べに対してこんな言葉を残している。「小学生のときから自殺したかったけれど、勇気がなくて、ただ人を殺しさえすれば、この苦しい人生を終わらせることができると思った」

 死刑は犯罪の抑制につながらない。「ひとりで死ね」という言葉が、空しく宙をおよぐように感じるエピソードである。

 この一連の出来事が台湾社会に与えた影響は、はかりしれない。

誰かの心の灯を吹き消さないために

 事件発生当時、総統就任を目前に控えていた蔡英文総統は現場に献花におもむき、小燈泡ちゃんにこんなメッセージを寄せている。

 「おばちゃんは、あなたの犠牲を絶対に無駄にはしません。この社会には沢山の壊れた穴がある。おばちゃんは全力でそれらを修復するからね」 

 2016年11月、蔡政府はクレアさんを、被害者・被害者遺族という身分で司法改革会議に招いた。

 それから3年が経ち、毎年のように立て続けに台湾で発生していた無差別殺傷事件は、今のところ起こっていない。クレアさんは2018年のインタビューでこうも語っている。

 「小燈泡がこの世を去らなければならなかった意味、その肩に乗っていた使命があったと信じています。それについて、何かしら努力を続けていく事が、私たち家族の慰めにもなる」

 蔡英文総統が就任したあとの司法改革と、事件の減少を短絡的につなげたいわけではない。ただ、あの時のクレアさんの発言や姿は、台湾社会の多くの人々の心を揺り動かしたと思う。クレアさんが与えてくれたのは、不条理と暴力にまみれたこの世界で、人間とはこんなにも気高く勇敢にいられるのだという「発見」だった。そうしたメッセージは台湾社会の中で生きる無数の人々の心を小さく照らし出し、暴発する寸前の孤独な魂にも、あるいは小さな小さな明かりを灯したかもしれない。

 誰もがクレアさんのように振舞えるわけではない。私自身も、もし同じ立場になったときに、そのように行動できる自信は全くない。しかし、当事者ではない人々が、どのように社会にメッセージを発していけば、誰かの心の灯を吹き消さないようにできるのか。事件の犠牲となった小燈泡ちゃん、そしてクレアさんの痛みを無駄にしないように、考え続けていかなければならないと思う。

iStock / Getty Images Plus / VectorStory


 最後に、台湾で、そして日本で痛ましい事件により亡くなった全ての方のご冥福と、その被害者遺族の方々の平安、そして今後これらのような事件が起こらない事を心より願っています。
 

連載:栖来ひかりが綴る「日本人に伝えたい台湾のリアル」
 

栖来ひかり(台湾在住ライター)
京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。日本の各媒体に台湾事情を寄稿している。著書に『在台灣尋找Y字路/台湾、Y字路さがし』(2017年、玉山社)、『山口,西京都的古城之美』(2018年、幸福文化)、『台湾と山口をつなぐ旅』(2018年、西日本出版社)がある。 個人ブログ:『台北歳時記~taipei story』

  
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