足立倫行のプレミアムエッセイ

2019年10月31日

»著者プロフィール

驚くべき結果

 宝賀氏の氏族系譜研究は世代対応を重視する。例えば、初代神武天皇から10代崇神天皇までの王統譜では中間8世代だが、物部氏、中臣氏、忌部(いんべ)氏などの氏族系譜はどれも4世代。だから『記紀』などを参考に人名を世代対応させて行くと、王統譜が修正できる。

 これに祭祀、習俗、東アジア史等の要素を加えると古代史解明の新たな方法論となる。

 この論法で導かれた結果は驚くべきものだ。

 神功皇后と伝えられる女性は、(夫?)14代仲衰天皇とは何の関係もなく、その前の13代成務天皇の皇后で本名は日葉酢(ひばす)媛。

 当然、15代応神天皇も神功皇后の子ではない。神功(日葉酢媛)が産んだのは皇女オナベ媛であり、応神は皇位を奪った後に媛を皇后に迎え、成務夫妻の娘婿になった。

 では、応神の出自はどうなっているのか?

 天孫族(天皇家の一族)と同系で九州の宇佐国造から分岐した一族だった。九州から四国を経て吉備から播磨に展開した息長(おきなが)氏族の出身である。父親は、8代垂仁天皇の女婿の稲瀬彦(息長彦人大兄)命。

 この応神の姉妹が14代仲衰の皇后になった大中媛だ。14代仲衰と同世代だった応神は、本来天皇となるべき甥の忍熊(おしくま)王兄弟を打倒して皇位に就いたことになる。

 他方で応神は、在位(390~413年頃)の時代に朝鮮半島に出兵して高句麗や新羅と戦った。高句麗の好太王(広開大王)碑にある倭(日本)と3国の絡む抗争だが、碑文通りに倭が一方的に負けたわけではない。

 この戦いは日葉酢媛(神功)の韓地外征(372年頃)を継いだものだ。なぜ摂政の皇后やその後継者は半島を目指したのか?

 宝賀氏によれば、成務天皇の時代にヤマト王権は関東・陸奥まで国造を配置し日本列島をほぼ統一した。となれば、中国・西域を起源として朝鮮半島南部の伽耶(かや)経由で列島にやってきたツングース系の天孫族の意識は、鉄資源もある出発地へ向かう。日葉酢媛は夫の遺志を継いだ。

 「大和朝廷が自らの原郷である朝鮮半島南部に向けて出兵を行おうとするのは、歴史の流れとして自然な展開であった」(宝賀寿男『神功皇后と天日矛の伝承』法令出版、2008)

 続く応神王統の「倭の五王」が中国の宋に朝貢し、半島各地の支配を意味する将軍号をさかんに要請した理由も、これでわかる。

大阪平野に、なぜ過去最大規模の墓を造ったか?

 つまり応神は、新王統であり、天皇(大王)が率先して武力を振るう時代にあって、版図を一気に海外まで拡大しようとした英雄的な(始祖王的な?)君主だったのだ。

 奈良時代の天皇たちは応神を皇祖と考えていた。だからこそ道鏡への皇位移譲問題が起きた時(767年)、宇佐八幡宮に祭られた八幡大神(=応神)に判断を求めた。

 と、ここまでくると、海外からの使者を迎える大阪平野に、どうして過去最大規模の応神天皇陵(生前に築いた寿陵)が築造されたかが見えてくる。王統の正当化と権力の誇示だ。

 次の16代仁徳は庶子だった。父と同様、嫡出子を倒して皇位を簒奪した。応神は女傑皇后の「胎中天皇」を装い自らの正統性を訴えたが、仁徳が用いたのは「聖帝」アピール。

 かくして河内に、応神天皇陵と仁徳天皇陵、2つの巨大古墳が並立した、のでは?

 以上は、百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されながらシンボル古墳の被葬者が不明な現状への一考察、一つの仮説である。

  
▲「WEDGE Infinity」の新着記事などをお届けしています。

関連記事

新着記事

»もっと見る