2022年8月18日(木)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年4月11日

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城山英巳 (しろやま・ひでみ)

北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 教授

慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社に入社。計10年の北京特派員を経て2020年から現職。ボーン・上田記念国際記者賞受賞。早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了、博士(社会科学)。著書に『天安門ファイル』(中央公論新社)、『マオとミカド』(白水社)など多数。

薄は「文革の誤りの遺毒」  温首相発言の真意

 今の中国共産党指導部は何よりバランスを重視する「集団指導体制」。「ミニ毛沢東が最高指導部に入れば党内はゴタゴタする」というのが、胡錦濤や温家宝、習近平らの結論だった。大衆を煽る文革さながらの薄の動員型政治を拒否したわけだ。

 しかし薄が解任された直後、機関紙・重慶日報には、こんな市民の声が掲載された。「多数の市民は中央の決定を擁護し、(薄の後任の)張徳江同志(副首相)の重慶での仕事を心から歓迎している」。

 ほとんど「やらせ」に近い宣伝だが、「大衆動員型」政治の切り崩しには、「大衆動員型」で対抗する以外に方法がないのも、中国社会の危険な現実だろう。さらに中国政治の世界では大衆を味方に付けないと、権力闘争に勝てない。薄熙来は毛沢東時代から少しも変わらない事実を熟知し、引き継ごうとした。

 温家宝首相は薄熙来解任前日の記者会見で「文革の誤りの遺毒(いまだ残る有害思想)が完全に取り除かれていない。政治体制改革を進めないと、文革の歴史的悲劇を繰り返す」と訴えた。「遺毒」とは「薄熙来」のことを指し、この時点で既に内部決定していた薄解任を事実上予告したわけだが、「今、薄熙来を倒さないと、再び悪い毛沢東が登場する」とも読める発言だと言えよう。

薄熙来の原点は文革時の迫害にある 

 こうした薄熙来の政治的嗅覚はどこで身に付けたものなのか。

 実は文革にまで遡ってみると、薄の原点が見えてくる。最近、中国のサイト『中国選挙與治理網』に掲載された彭勁秀「“文革”中的薄家」の記載が正確なので、これを主に引用してみたい。

 1989年天安門事件などの際、八大元老の一人として影響力を保持し続け、07年に死去した薄熙来の父親・薄一波は、1931年、国民党に逮捕され、8年の懲役刑を受け、北平(北京)の草嵐子監獄に収監された。35年には反省を拒絶したとして薄一波ら共産党員12人に死刑が内定したが、国民政府は執行しなかった。

 こうした中で36年、華北地方を管轄した劉少奇は、獄中で不屈の闘争を続けた薄一波らを救出できれば、弱体化した華北地区の増強につながると判断。「転向」させることで出獄させようとしたのだ。

 そして「国民党の規定」に基づき、薄一波らは出獄。毛沢東も薄らの5年間半に及ぶ獄中闘争を称賛し、薄は45年の共産党第7回大会で中央委員に選出され、副首相まで上り詰めた。

 だが、文革の嵐が66年暮れから吹き荒れると、国家主席・劉少奇を追い落とそうと企む秘密警察・康生(中央文革小組顧問)らが、薄一波らの出獄を疑問視した「61人叛徒集団問題」を提起。薄一波らは裏切り者とされ、67年元旦には紅衛兵によって療養中の広州から北京に引きずり出された。紅衛兵は「お前は国民党の犬の穴から這い出てきたのだろ」と批判し、同年3月には「劉少奇叛徒集団主要分子」として監獄行きとなった。

父親と自分の悲劇を重ね合わせる薄

 薄一波の娘・薄小瑩は中国誌『環球人物』(11年11月)に当時の様子をこう語っている。

 「父は決して屈服しなかったので、『武力批判』は日常茶飯事だった。12年間に及ぶ迫害のうち、8年間は独房で孤独の身となり、家族との音信も途絶え、当時70歳近い老人だったが、ののしられ、侮辱され、殴られた」。薄一波の妻、つまり薄熙来の母親は北京に護送されてくる汽車の中で迫害され、死亡するという悲劇が起こった。

 少年・薄熙来は文革初期、紅衛兵だった。しかし父親の失脚に伴って「狗仔子」(子犬め)と蔑視された。そして68年1月、19歳にも満たない薄熙来は父親に連座し、5年近く自由を奪われる生活を送ったとされる。

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