この熱き人々

2020年2月26日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

◉さかもと ながとし:1929年、島根県生まれ。小劇場運動の先駆けとして活動、数多くの舞台、映画、テレビで存在感を発揮してきた。30代で始めた独演劇「土佐源氏」は役者としての代名詞となり、上演1200回以上を重ねる。
 
 
 
 

 東京の劇場「座・高円寺」の約300席を埋めた客は、1畳ほどの大きさの台と1本の蝋燭(ろうそく)が灯る舞台を見つめていた。かすかな水音に祭囃子。やがて御詠歌(ごえいか)が重なり、薦(こも)をかぶった目の不自由な老人が震える足で台に上がり腰を下ろすと、閉じられた目を静かに客席に向ける。

 「あんたも酔狂者じゃのう、わしの話を聞きに来るとは」

 途切れ途切れの第一声がなぜか驚くほどの迫力でホール内に響き、90歳になった坂本長利の1215回目の独演劇「土佐源氏」が始まった。

 「土佐源氏」は、民俗学者・宮本常一の著書『忘れられた日本人』の中に収められた、高知県檮原町(ゆすはらちょう)の80歳になる元馬喰(ばくろう)から実際に聞き取った話。それを坂本が独演劇として50年以上の長きにわたって演じ続けている。両親の顔も知らずひとりで生きてきた馬喰と日々寂しさを抱えた女たちの、切なさと哀しみと喜びとやさしさが団子のように絡まった艶話だが、男女の性より人間の性(さが)が、時に愛おしく、時に狂おしく、時に美しく客席を包み込んでいく。

 高円寺での公演から半月後、坂本は東京・赤坂にいた。独り暮らしの栃木県から徒歩と電車で東京に出てきて、この日また帰るという。小柄ながらダンディーで、斬新なコートがよく似合う。コム デ ギャルソンだという。このまま神棚の前に座れば火消しのかしらに、賭場に座れば侠客にもなりそう。それにしても90歳でコム デ ギャルソンをおしゃれに着こなす日本人がいることに驚いていると、「みんながいいって言うから……」と恥ずかしそうに俯(うつむ)いた。

 コートを脱いでチョコンと座ると、昨秋、世界190カ国に配信されたNetflixの人気ドラマ「深夜食堂」の老教師がそこにいた。坂本の像は、実像と虚像の境界線を難なく飛び越えて、どこまでも広がっていく。

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