どうしても役者になりたい
こんな時は、原点に戻るに限る。1929年、出雲に生まれた。ここが人間・坂本長利の原点になる。
「何もない田舎でね。祭りとたまに来る旅回りの芝居かサーカスだけが楽しみでしたね。野っ原に杭を打って小屋を作るところからワクワクしながら見てた。緞帳(どんちょう)の中を覗いたりね。終わると再び跡形もなくなるまでじっと突っ立って見てたね」
身体に叩き込まれた神楽の音と動きは、家の中でハタキを持ってひとりでこっそりと舞ってもいたという。
「今でも完全にリズムとれるよ。だんだん心地よくなって、本当に好きだったね」
幼い心に毎年重ねた快感が膨らんで、いつしか坂本の中に役者になりたいという漠たる思いが醸成されていったようだ。しかし、その思いは14歳で一度断たれた。
戦況が厳しさを増した43年、理髪店を経営していた父が召集された。残るのは祖母と母と妹。父は坂本を国鉄通信部の電話線や信号機の補修の仕事に就かせ出征していった。ただひとりの男だった14歳の少年に一家を託し、託された少年は学校をやめて働き始めた。夢が戻ったのは、戦後3年ほどして父が復員し、父親の役目から解放され自分に戻れた時だった。
「もう爆発的に復活した。役者になりたい。東京に行かなくてはならない。でも、それを父になかなか言い出せなくてね。ところが、どうせすぐ帰ってくると思ったようで、意外にあっさり出してくれた」
かくして念願の東京には出た。が、右も左もわからない。親戚も知人もいない。まだ復興途上の東京で、どうすれば役者というものになれるのか見当もつかない。途方に暮れていた時、出雲の町長の弟が東京にいるらしいと耳にした。面識はないが藁(わら)にもすがる思いで訪ねたら、シナリオ作家のところへ連れて行ってくれたという。
「そこで、君は何をしたいんだ、映画俳優になりたいのか舞台俳優になりたいのかって聞かれたんだけど、自分でも何だかよくわからない。正直にそう言ったら、何をやるにも基礎が大事だからここで基礎を学べと教えてもらったので、そこに行きました」
そことは、築地小劇場の創立メンバーでもある新劇の大女優・山本安英(やすえ)の家。表札の安英を見て男性だと思ったらしい。つまり、新劇も山本安英も名作「夕鶴」も知らなかったことになる。それでいて、役者になりたいという熱だけで出雲から東京までの距離を越えてきたというわけだ。
願書を出し、3次試験までをクリアして山本安英、木下順二が主宰する「ぶどうの会」に入り、発声、声楽、バレエ、日本舞踊、筋力トレーニングなど役者としての基礎の研鑽に努め、種は東京の地に根付いた。