「『風浪』という芝居が初舞台でした。全国公演が終わった時に、演出家に言われた。君はどんな役をつけてもダメだろうと思っていたがこの『風浪』の役はすごくよかった、どうしてか言えって。自分には、そんなの何て言っていいか全然わからないわけよ。本当に辛かった」
自分の何がダメで、何がいいのかわからない。そんな20代の後半に、坂本は「土佐源氏」と初めて出会っている。
「27歳の時でした。『民話』という雑誌で読んだんです。何か気持ちの中に、この爺さんがすっと入ってきた。自分の原風景に近かったのかな」
その時には、それが後に自分の人生と深く関わることになるという予感すらなかった。再び「土佐源氏」が坂本の前に現れるには、まだ10年の年月を待たなければならない。激動の10年で最大の試練は「ぶどうの会」の突然の解散だった。
「幸徳秋水の役がすごく当たってね。やっと役者として生きていけるかなと思ったとたん、何の前触れもなく解散してしまって。呆然として、真っ暗闇に取り残されたような感じで1年間何もできなかった。35歳の頃でした」
「土佐源氏」始まる
それでも自らの内に燃える炎を頼りに、小劇場の先駆けとなる劇団「変身」を旗揚げした。夏は蚊取り線香、冬はストーブひとつの70席の芝居小屋で、若い後輩とともに毎月、宮本研、内田栄一、秋浜悟史(さとし)などの作品を意欲的に実験的に上演し、貧乏所帯でも誰もが燃えるような思いを共有して舞台を創っていたエキサイティングな日々。既成のものを破って新たな何かを生み出そうとする意欲にあふれた時代でもあった。
そんな時、新宿のモダンアートというストリップ劇場から幕間の25分間を使って前衛劇をという依頼を受けた。しかし、客は芝居を観にきているわけではない。一体全体何ができるのか。悩んでいた坂本の頭に、27歳の時に読んだ「土佐源氏」の爺さんが蘇った。艶話である。空間に違和感はない。あの爺さんを舞台に上げたい。では、どういう形で? 配役を決めて数人で演じることも考えたが、それでは爺さんの色も味も出ない。ひとりで演じるしかない。落語でもなく、講談でもなく、ひとりで演じる芝居にしたい。
そして67年。「土佐源氏」は記念すべき初演を迎えたのである。が、案の定、客は新聞を広げて観ようともしない。最初に反応したのは踊り子たちだった。涙を浮かべて聞き入る者もいた。その踊り子たちが客席に下りて、感想を聞いて回ってくれた。偶然初演を観た、当時朝日新聞の記者だった演劇評論家の扇田昭彦は、「凄艶(せいえん)ともいうべき演技には異様な迫力と色気が漂っていて、最初は何が始まったのか呆然としていたが、やがて深い感動の渦に飲み込まれていった」と書いた。