世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
桜が全くなかったら穏やかな春になるのに、という古今(こきん)和歌集の在原業平(ありわらのなりひら)の歌は、人の心を騒がせ穏やかにさせない桜への強い愛着を詠んでいる。それから1000年後を生きる私たちも、開花予想を睨みつつ花見の予定を立て、予想が当たれば今度は天気予報に一喜一憂し、運よく晴れたら席取りに疲労困憊(こんぱい)。古から現代まで、春の心をのどかにさせないけれど日本人が愛してやまないのが桜という花だ。
桜の名所は全国各地にあまたあるが、「名所にこの男あり」と言われているのが樹木医の和田博幸。桜の健康管理をするだけでなく、人との共存、社会との共存のために地域環境の保護や啓蒙活動にも力を注いでいる、現代の桜守でもある。
日本人にとって特別な存在である桜は、バラ科サクラ属に分類される落葉広葉樹。
「基になる桜の野生種は10種類ほどですが、そこから数百種類の品種が生まれています。日本の自然と共に多様に生きてきた植物なんです。鎌倉に幕府ができて、京都との交流が生まれ、関東のオオシマザクラと都のヤマザクラが掛け合わさって一気にいろいろな桜が生まれたと思われます」
自然の中に生きる桜はそれぞれ個性的で多様性を保っているが、都会の人々が目にする桜はソメイヨシノが多い。多様というより人気が1種に集中しているようだ。
「ソメイヨシノは、江戸時代末期に染井村(現・東京都豊島区駒込)の植木職人がエドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせて作り売り出したとされ、明治期に人気が高まりました。桜の中では新参者ですが、一斉に開花したくさんの花を咲かせて一気に散る姿が美意識の象徴のように広められて、瞬く間に浸透していったようです」
エドヒガンからは葉より花が先に咲き木を花が覆う特徴を受け継ぎ、オオシマザクラからは大きく美しい花の形を受け継ぎ、その中でも最も美しいものを選んで接ぎ木で増やしていったソメイヨシノは、同種間では種子をつけない。
「ヤマザクラは個性がそれぞれ違うので点々と山の中で咲きますが、ソメイヨシノはすべてクローンなので同じ地域では同時に開花する。だからあの見事な美しさが堪能できるんです。新しい品種なので本当の寿命はまだわかりませんが、データでは40年くらいが樹勢のピークで、その頃から枝の伸びが少なくなって傷み出すこともあり、そのまま手をかけないでいると60年から70年で終わる。ただ、うまく手をかければ、140歳の樹もあります」