立身出世よりも誠実さが大事
彼のこうした特性は、どこから生まれたのだろうか。陳時中が若い頃、父と対立した経験を綴った文章がある。私が学生時代に参考書として使用した論文集『家族法新課題』に掲載されている。そのなかで陳時中は父を「過程論者」だと評する。それに対して自分はかつて「結果論者」だった、と。つまり、父の陳棋炎は結果よりもそこに至るまでの過程で、いかに努力を重ねたか、どれだけ地道に進んだか、というプロセスを大事にする人だった。それに対して自分は、努力したことよりも結果を出すことを重視していた。だが、年齢を重ねてようやく父の言う「過程の大切さ」を理解できるようになったという。つまり「做人做事(立身出世)」よりも「誠実さ」が重要だと気づいたのだ。
厳格さと愛情を兼ね備えた父の陳棋炎は、若き日本時代に身につけた作法を全く変えようとしなかった。教壇に立つときの陳棋炎は、当時の学生からすればまさに日本留学帰りのジェントルマンで、髪には櫛を通し、背広をきちんと着こなし、常に黒の革靴はぴかぴかに磨かれていた。私の恩師である台湾大学教授の葉俊栄もまた陳棋炎の教え子である。葉俊栄のトレードマークは長い髪の毛だが、陳棋炎から「君の髪は長すぎる。切りなさい」と忠告されたこともあるそうだ。
台大教授のかたわら、東京大学や中央大学に客員教授として赴任し、親族法の研究に勤しんだ陳棋炎と日本との縁は生涯切れることがなかった。日本で旧制松本高等学校の同窓会があれば駆けつけた。日本・台湾・韓国の三カ国が持ち回りで開いた民法研究フォーラムでは学者としてだけでなく、日本をよく知る世話人として先頭に立ったという。
鉄人大臣の父と、李登輝の共通点
陳時中が、父の厳格さがもっとも現れているものとして挙げるのが「時間を守ること」だ。父はいつでも時間というものを大切にしていた。時間通りに出勤し、時間通りに帰宅する。小さい頃、時計の針が6時を指すのとほぼ同時に玄関の呼び鈴が鳴ることもしばしばだった。晩餐会があれば30分前には到着するようにし、自分が主催の場合は1時間前には会場にいたという。論文は提出日の前月には提出し、試験の採点は3日以内に終わらせ、受け取った手紙にはその日のうちに必ず返事を出していた。
こうした父親のふるまいを、息子の陳時中はあまり気に留めていなかったらしいが、あるとき自分の息子の部屋に「今日事、今日畢(阿公説)」と標語が貼ってあるのを見て驚いた。「今日やるべきことは今日終わらせよ(おじいちゃんの教え)」という意味だ。これを見た陳時中は「行動で教える」ことの大切さに気づいたという。
そういえば、同じ時代を歩んだ李登輝も「実践躬行」という言葉を好んで使っている。921震災(1999年)で全壊した台中日本人学校を視察したとき、呆然とする校長先生や保護者から「なんとかご支援いただきたい」と頼まれたので「わかりました」と一言だけ答えたところ、先生たちはキョトンとしていた。李登輝曰く「今の人は意味がわからないんだ。日本時代に私たちが教わったのは『わかりました』というのは『必ずやります』という意味なんだ」。事実、李登輝はその日のうちに総統府で台中日本人学校の新しい敷地を探すよう指示し、早い段階での学校再開が実現している。
陳時中にも父から受け継いだ、厳格さのなかにも愛情あふれる日本精神が流れているように思える。先日、小学生の男の子を持つ母親から訴えがあった。子供が「ピンク色のマスクをして学校へ行くと、からかわれるから付けたくない」と言うのだ。その日の午後、中央流行疫情指揮センターの幹部5人全員がピンク色のマスクをして記者会見を開いた。「命を守るのに色は関係ないよ」という言葉とともに「私は小さいころ、ピンクパンサーが大好きだったんだ。ピンクはいい色だよ」と呼びかけた。これに台湾社会がまたたく間に呼応し、フェイスブック上では多くの企業や個人がプロフィール画像をピンク色に変えて陳時中の呼びかけを支持した。こうした一体感を生み出しているのは、感染拡大防止に成功している台湾だからこそだが、結果だけでなく「過程」を重んじる父の教えを守る陳時中の存在が大きいことは間違いないだろう。
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。
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