(5)山東省の陳一家に対する超法規的措置に関する情報を調査する
(6)米政府は定期的に陳を訪問するなど約束実行を監視する
中国政府は陳の大学入学に関して上海、天津など7校の選択肢を与え、学費や生活費、居住費を負担することまで約束した。
「国内」か「出国」で揺れ動く
大使館を出た陳は米大使館から提供された携帯電話で、人権派弁護士・李勁松に電話した。「北京の朝陽病院に行く。友人たちに会いたいから、面会に来てくれないですか」。陳は李にこう伝えた。
李は、2006年に「公共財産を破壊し、群衆を組織して交通をかく乱させた」罪で起訴された陳の弁護人を務めた。電話を受け取った際、広東省に滞在していた。しかし05~06年当時、言われなき罪で自由を完全に失った陳を助けようと立ち上がった複数の人権派弁護士らに対し、携帯電話メールで陳の意向を知らせた。李も急きょ、3日夜、広東省から北京に戻った。
李から携帯電話メールを受け取った北京の人権派弁護士・江天勇は2日夕、すぐ病院に向かった。朝陽病院に到着し、院内に入ったが、北京市公安局の私服警官が呼び止め、外に追い出された。江は病院前で多くの報道陣に囲まれた。
「陳光誠はずっと中国を離れたくないと思っている。しかし中国には安全や自由はない。彼には中国を離れてほしい」。江はこう訴えた。
陳が友人との面会を求めたのは、支援者の力を結集して中国共産党・政府と闘う意思表示であったが、自分が国内に残るべきかどうか、悩んでいたという面もあった。
迫害続き、子供の将来案じた妻
陳は朝陽病院で、山東省から駆け付けた妻の袁偉静や2人の子供と再会した。米国務省高官は報道陣に「米中両国はここ数日間、極めて緊迫したが、協力的なプロセスに従事した」と交渉結果を評価したが、ロックやキャンベルらが離れた病院内では米政府が想定しない事態が進行していた。
同病院9階。骨折した足に石膏をはめた陳は袁から、自分が脱出した後の故郷・東師古村で何が起こったか聞いた。
陳は筆者の電話取材(5月3日)に語ったところによると、「わが家の状況は非常に劣悪で、多くの者(地元当局者)がわが家に居付いた。部屋にも庭にも屋根の上にもだ。わが家で食べて住んで家具も使っている。われわれにはどうしようもない」という。見張りも民間人から、公安(警官)に変わり、自宅には監視カメラまで取り付けられた。
袁は4月27日、警察に連行され、椅子に縛り付けられて事情聴取され、地元幹部は生命への危険を示唆する脅迫も行ったというのだ。さらに中国外務省の担当者は、北京に着いた袁に対して「陳光誠を説得して大使館を離れさせなければ、あなたと子供を山東省に送り返す」と脅した。妻子を北京まで送って来た山東省の当局者もまだ帰らず、北京にとどまったという。
袁は軟禁中、離れ離れだった息子や、小学生になっても一時就学を認められなかった娘の教育のことを考え、国内に居続けることに懸念を抱き始めていた。
「米国行き」を強く勧めた友人たち
2日夜、陳は長年の友人で人権活動家の滕彪に病室から電話した。この電話が結果的に陳を「変心」させる直接の契機になるのだ。