この熱き人々

2020年6月25日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 「そだよ。去年は2度も具合が悪くなって病院行ったら日射病だってさ。点滴して薬もらったらよくなったけどね」

 餅米は近くの畑で作ってもらい、小豆は自分でも作っている。すべて目に見える材料で防腐剤や添加物は一切使わない。最後の工程は、賞味期限を書き込んだ袋に笹餅を2個ずつ詰めて金色のテープを巻いて商品にする。まさに、ひとり6次産業である。

 この作業所で摂る3度の食事も、漬物もおかずもすべて手作り。割烹着も服も髪をまとめるキャップも手作り。

 「そう、すべて手作りだ。この頭さ被るの作りたいから教えてくれって言う人がいるのさ。小さい時からものを買うということはあんまりながったな。小学校5、6年の時は自分の着るものは自分で縫ってたもの」

一家の大黒柱として働く

 桑田ミサオは、1927年に現在の北津軽郡中泊町(なかどまりまち)で生まれている。幼い頃は体が弱かったのだという。

 「すぐに腹を病む子でな。病院に行くと4、5日は学校さ行かれなくて、かっちゃはその間仕事さ出られないから頼まれた着物を縫う内職をして、私は針に糸通す手伝いをしながら縫い方も教えてもらった。かっちゃといろいろ話っこするのが楽しみだったんだ。何かわがらないことさあっだば人に教えてもらいなさいとか。1を聞いたら10を知らねばいげないよとか。10本の指は黄金の山だとかね。かっちゃから教わったことで、今の自分があるんだなって思うんだ」

 誕生した時にはすでに父は亡くなっていて、父の顔を知らないミサオはやがて母の再婚によって金木町に住むようになり、45年に19歳で結婚している。

 南方から復員してきた夫は、戦地でマラリアに罹患しその後遺症もあってなかなか働きに出られない。子供2人を育て、家事をこなし、病弱な夫の世話をしながら、生活費の調達もミサオの双肩にかかっていた。

 「働かねばならないから、県の農場(現・弘前大学金木農場)さ米作の手伝いの仕事に出てたんだ。農場ではハムやソーセージも作っていて、買って帰ったら何とおいしいもんだろうと感激して、次の日に農場の先生に『どうやって作るんですか?』と聞いてしまったんだ。聞かねばよかったのに。そしたら、その先生が怒ってな。『これを作るのにどれだけ労力や時間がかかっているか。簡単に聞くな』って。泣きそうになりながらすみませんって謝ったけどな」

 家に帰ってよく考え、やっぱり自分が悪かったともう一度謝りに行ったら、その先生が自分もちょっと強く言い過ぎたなと笑ってくれた。

 「本当にうれしかったな。その先生が、いろいろな工夫やスパイスが味を作っているって教えてくれた。その時にはまさか笹餅作るとは思ってもなかったけど、今考えるとその言葉にすごく助けられたんだよね」

 わからないことがあったら誰かに聞きなさいという母の言葉は、探求心旺盛なミサオに、出会う人々から多くのことを学んでほしいという願いだったのだろう。社会や人々が、小学校にしか行けなかったミサオの女学校にも大学にもなってくれたというわけだ。

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