2024年5月8日(水)

この熱き人々

2020年7月27日

 さくらという役に恵まれたのにそれを疎ましく思う自分を見つめ直したのである。そんな倍賞は、当時は1年に3本制作されていた「男はつらいよ」と並行して、民子3部作と呼ばれる「家族」「故郷」「遙かなる山の呼び声」に出演している。どれも山田洋次監督の作品でいずれも力作、名作である。そして役名はすべて民子。「家族」の民子は、長崎から北海道へ新天地を求めて日本を縦断し、「故郷」の民子は小舟を操り島での過酷な生活を支え、「遙かなる山の呼び声」の民子は夫を亡くしひとりで酪農を営みながら子供を育て、高倉健演じる殺人犯をかくまい、最後は刑務所に護送される男に待っていることを伝える。

 「民子たちはさくらと全然違う。3000キロの日本縦断の旅をする女だったり、たくましく働いて自ら決断して自分の人生を生きていく女たちなのよね」

 状況も人物設定も舞台もすべて違うのに、なんでみんな同じ民子なんだろうとずっと謎だった。もしかしたら、健気で控えめでじっと動かず待っている「さくら」の対極にいる「民子」攻勢によって、女優・倍賞千恵子として羽ばたける世界を拓くための山田監督からの試練でもありやさしさでもあったのかと思えてきた。その道の先に、「さくら」でも「民子」でもない、松竹以外の初の他社出演となった倉本聰脚本の「駅 STATION」の「桐子」がいる。もはや桐子にさくらを重ねることはできない。どこを切っても女優・倍賞千恵子の血が流れる境地を、しっかりと自らの力で確立していったと言えるのではないだろうか。

日常のリアリティーを演じる

 これまで175本(2本は未公開)の映画に出演している倍賞は、そのうち実に70本が山田洋次監督の作品。1人の女優が1人の監督とこれだけ多くの仕事をするというのもまた、映画界にあっては珍しいことと言われている。その山田監督は、「彼女がいると画面全体がある種のリアリティーを持つ。彼女は相手が話している時、それをセリフとして役者の自分が聞くのではなく、本当の彼女が真剣に聞くから、相手の役者も本当の気持ちで話せる。他の役者を上手にさせるから彼女がいてくれると安心なんです」とかつてインタビューに答えているのを読んだ記憶がある。

 「昔ね、東芝日曜劇場っていうテレビドラマに出た時、石井ふく子プロデューサーから『片付けものしながらセリフをよく普通に言えるね』と言われたことがあってね。え?でもそれって、みんな日常で普通にやってることだよねって思ったの。布団畳みながら文句言ったり、洗い物しながら家族に話しかけたり、私、日常で普通にやってたことだったから」

 倍賞千恵子は普通を普通に演じることができる稀有な女優だと言っていた人がいたことを思い出した。大きな悲しみや歓び、重大な局面などはむしろ演じやすいのかもしれないが、普通にお願いしますと言われ、普通ってどうすればいいのかと考えてしまうとすべてが不自然になってしまう。普通を普通に演じるということは、実は最も難しいことなのかもしれない。

 では、普通になっていないことを普通に演じるケースではどうするのだろう。


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