倍賞千恵子は、日本を代表する大女優の1人である。が、スーパーマーケットで買い物をしている姿にこれほど違和感のない女優はいないのではないかと思う。実際に、街を歩くのにサングラスや大きな帽子をかぶることもあまりない。すれ違った人たちが、ン?と足を止め、もしかしたら……とチラチラ見て、「あ、さくらさんだ!」という声が上がると、同じように、ン?と小首をかしげながら「多分ね」とか「そうかもね」と笑顔で答える。その瞬間にみんなの緊張感が消えて、まるで旧知の人に出会ったように倍賞に話しかける。国民的映画とまで言われた山田洋次監督の「男はつらいよ」で26年間演じ続けた寅さんの妹さくら役は、映画の中のさくらとは年齢も髪型も服装も何もかも違っていてさえ未だに倍賞とどこかで合体している。不思議な光景である。
26年間、マドンナこそ変わっても「とらや」という舞台も寅さんを取り巻く登場人物も同じというスタイルで映画が作られ続けるというのは非常に珍しい。観続ける観客に、映画だけれど映画を超えて柴又に行けば実際に存在するような錯覚を生み出す。一方で、演じた側はそれをどんなふうに受け止めていたのだろう。
「さくらさん、お兄さんお元気ですか?って声かけられるし、自分でも買い物をしてて、このエプロンいいなって感じているのはさくらの目だったりする。別の仕事をしていても、指先をちょっと切ったらさくらの血が出てくるみたいな感じがして。1度撮影の時に前髪を切っちゃったの。山田監督に何考えてんだって怒られて、さくらの引っ詰め髪に戻したことがあったわね」
自分を乗っ取っていくようなさくらを疎ましく思ったり、ささやかな抵抗を試みたりしていた頃、寅さんを演じる渥美清に、役者が役名で呼ばれることはすばらしいことなんだよと言われた。渥美自身は、その強烈な個性ゆえにさらに激しく寅さんとの境目が曖昧になり、他の役を演じていてもつい寅さんが演じているような気がしたものだ。ある時から、渥美は寅さん以外の役を断ることで、ファンの思いを完全に受け入れて寅さんと自らを一体化させた。渥美の言葉は、そんな覚悟とそんな道もまたすばらしいという思いを伝えたのだろう。
それを聞いた時に倍賞は思ったという。
「自分は何て奢った考えをしていたんだろうって反省しちゃった」