2024年4月27日(土)

この熱き人々

2020年7月27日

 「普通じゃない時は、普通にしちゃうの。体の動きとしても気持ち的にもそれが普通になるまでなじませる。民子さんたちは、酪農で乳搾りしたりトラクターを運転したりするから、私も牛の乳搾りがうまくなるまでがんばってから撮影に臨む。トラクターも動かすことに意識が向かってしまうと言葉が自然に出ないからすごく練習したんだよね。私、映画でいろいろな仕事を覚えたし、出会う人たちからたくさんのことを学んだし、本当に本当に文字通り学校だったなあと思ってる」

 しかし、倍賞は女優になりたいという強い意志で女優を目指したのではないという。

 「強いて言えば、なっちゃったって感じかなあ。私、どうも自分の意志で何かを決めてきたというより、気がつくと何かが決まっていて、え~っと驚きながら目の前の道を必死で歩いてきた気がするのよね」

童謡歌手から映画女優へ

 倍賞が生まれたのは1941年。芸能に関係がある家ではなく、父は都電の運転士で、母も女性で初めて採用された都電の車掌。東京の下町に生まれ、戦時中は茨城に疎開して小学校5年で再び東京の下町に戻ってきた。芸能との最初の関わりは歌との出会いで、童謡歌手として活動していた小学生の頃にさかのぼる。歌が好きだった? という問いに、う~んと首をかしげた。

 「姉がすごく歌が好きだったので、何となく私も姉と一緒にいろいろなのど自慢とかに出てた。NHKのど自慢では姉が予選で落ちちゃって私だけが本選に進んだんだけど、その時にみすず児童合唱団の人から声をかけられて、そこからポリドールレコードの童謡歌手ってことになったわけ。いい声だねと大人に言われて、何だか一生懸命歌ってたわね」

 中学を卒業する時、倍賞自身は普通高校に進学する気でいたが、両親から松竹歌劇団(SKD)の劇団員養成機関の松竹音楽舞踊学校の願書を見せられ、えっ?と思いつつ受験した。

 「会場に行ったら定員の10倍くらいの人がいて、それ見たら高校受験のことなんかすっかり忘れて、1次、2次、3次と頑張っちゃったのよねえ。入学したら試験があって、最初5、6番だったけどいつか1番になりたいなって思っちゃってね」

 稽古場を確保するため上級生が来る前の早い時間に登校して、ひたすら稽古を重ねて卒業の時は首席だったという。本人が自覚していなくても、類まれな才能は相当に目立っていたようで、60年に13期生としてSKDに入団し浅草の国際劇場の舞台に立って1年もたたないうちに新人女優を探していた松竹から声がかかり、翌年の61年には「斑女(はんにょ)」で映画デビュー。

 「SKDの先生に呼び出されて、は?ハイ……という感じで決まったけど、私はその1本でSKDに戻れると思ってたから、戻った時に私の居場所があるか心配してこっそり舞台を観に行ったりしてたのよ。でも、『斑女』の撮影中に次の台本が渡されて、また次の台本って続いて戻れなくなっちゃった」

 その年だけで9本の映画に出演したという。大きな舞台の真ん中で縦横に歌い踊る生活が始まったばかりでまたもや、本人の意志ではなかった映画の道をまっしぐらに進むことになったわけだが、最初はなかなかなじめずに苦労したそうだ。その道を走る心構えができても走り方がわからない。


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