台湾の李登輝元総統の死去に対する日本政府の反応は、やや冷淡に映った。
葬儀への特使派遣の考えはさらさらなく、安倍首相のお悔やみのコメントも紋切り型の内容だった。中国への配慮が必要というのは理解できるが、李登輝氏が日台関係に残した足跡の大きさ、台湾の存在の重要性を考えると残念と感じる向きもあろう。
中国の顔色をうかがうことにうんざりし続けている国民は少なくない。この機会に、米国の「台湾旅行法」にならって法を整備、政府高官の往来を自由にするのも一法ではないか。台湾への〝不義理〟も解消され、双方の関係はいっそう拡大、東アジアの安全保障にも寄与するだろう。
深みに欠ける弔辞
李登輝総統死去翌日の7月31日、安倍首相は官邸で記者団の質問に答え、お悔やみの言葉を述べた。
「日台の友好増進に多大な貢献、日本に特別な思いで接してこられた」「台湾に自由と民主主義、人権、普遍的な価値を(もたらした)」など故総統の功績に言及、「多くの日本国民が格別な親しみを持っていた」とその死を悼んだ。
それなりに慇懃ではあるが、型通りの印象はぬぐえない。「22歳まで日本人だった」が口癖の親日家、靖国神社にも詣でた東アジアの大政治家の死を悼むなら、もう少しものの言いようもあったろう。個人的な思い出、故総統に関する知られざるエピソードなど、さすが日本国総理大臣と、聞く人をホロリとさせ、また厳粛な気分にさせる深みのある言葉を聞きたかった国民は少なくあるまい。
同じ日の定例会見で、野党時代に訪台した際に故総統と会談した印象を語った菅官房長官のほうがまだしも血が通っていたといえよう。
しかし、その官房長官にしてから、葬儀への対応については「政府関係者の派遣は予定しておりません」とにべもないのだから失望したむきもあるだろう。葬儀の日程すら決まっていないにもかかわらず、早々と対応を決めてしまっているというのはどういうことだろう。「まだ何とも・・」と言葉を濁すなり、これまた返答のしようがあったのではないか。
一貫して高官交流控える
中国に配慮した日本政府の対応は、もちろん理解できないわけではない。
日本は1972年の日中国交正常化の際、台湾と外交関係を断ち、「中国の不可分の領土の一部」という中国の主張を「理解し尊重する」(1972年、日中国交正常化の共同声明)という立場を貫いてきた。
それ以後、中央省庁の局長以上の高官の訪台は一切控え、台湾側に対しても、総統、行政院長(首相)、外相、国防相らの訪日はやはり原則として受け入れを拒否してきた。1994年の広島アジア大会に当時の徐立徳行政院副院長(副首相)が来日したことがあったが、これらは例外だった。
双方に懸案事項が出来した際は、日本側は「日本台湾交流協会」、台湾側は「台湾日本関係協会」といういずれも民間団体の間で協議、処理している。
この原則に反した場合や、台湾を独立国として扱ったりするとき、中国は必ず強く抗議。処理を誤ると日中関係の悪化を招く。台湾問題は、中国にとって、チベット問題などと並んで、ぜったいに譲歩できない「核心的利益」と位置づけられているからだ。
もちろん、「一つの中国」の原則は世界各国に適用され、冷戦終了後の唯一の超大国であり、中国と激しい対立関係にある米国も例外ではない。
ただ、米国の場合は日本とはやや状況が異なる。1979年1月、中国と国交正常化した際、「台湾関係法」を成立させた。外交関係こそ絶たれたものの、同法によって、米国からの武器供与は継続され安全保障面での強い関係は維持された。
しかし、米国も1972年のニクソン訪中時に発表された共同声明(上海コミュニケ)に盛り込まれた「一つの中国」「台湾は中国の一部」を順守、閣僚ら高官の往来は表向き控えてきた。
「台湾は独立した主権国家」
長く続いたこうした図式に大きな変革をもたらしたのが、ほかならぬ李登輝総統だ。
中国共産党同様、「中国は一つ」を夢想する中国国民党の総統ながら、戦前に台湾で生まれ育った「本省人」として、そのアイデンティティには強い愛着をもっていた。退任直前の1999年、「中国と台湾は特殊な国と国の関係」と言い切り、その後も「台湾は独立した主権国家」と持論を展開し続けた。当然、中国からは蛇蝎のごとく憎悪された。
この間、台湾内外の環境にも時代の波が押し寄せた。台湾内部においては「天然独」(生まれながらの独立派)という若い世代が台頭、国際的には、中国の軍拡による脅威増大にともなって、台湾の戦略的な重要性が高まってきた。