2024年11月25日(月)

子どもは変わる 大人も変わる 【WEB特別版】

2012年7月9日

優等生の家庭内暴力と「魂の殺害」

 この峻烈な問いかけから、私自身も逃れられません。一つは教員時代に関わった子どもたちから。もう一つは2人の息子を育てた親として――。

 つまり、親や先生は、良かれと思って子どもたちを指導したり、言い聞かせたりしています。しかし、無意識のうちに子どもを傷つけてしまうことも、決して珍しくはありません。たとえば、ギャングエイジと呼ばれる成長過程に突入する、元気印の小学校3年生のクラスで、一人だけ背筋を伸ばして着席していたM。ヤンチャ坊主たちとは一線を画し、生真面目で宿題もきっちりこなし、品行方正そのもの。特等席を設けてあげたいくらいの優等生でした。

 しかし、そんなMが中学生になり、家庭内暴力をふるっていること、母親が丹精込めて育てていた鉢植えをことごとく壊してしまったということを、人づてに聞きました。

 遊ぶことはもちろん、同年代の子どもたちと群れることも許されず、ひたすら学ぶことに全てを向けられ、親の敷いたレールの上をまっしぐらに走らされたM。魂を殺害されたことへの反逆、抗議のあらわれであることは論を俟ちません。ずたずたにされてしまった自分の魂へのさらなる自虐行為でしょう。この惨めさを伝える言葉を探すことができません。

 私自身も、教師として、親として、「加害者」になってしまったこともあると自覚しています。傷つける気はなかっただけに、制度や法律で防げない「魂の殺害」を、どのようになくしていけるのか……。答えを模索する日々が続いています。

否定的に捉えられる「遊び」

 更に視点を変えてみましょう。今日、私たちの生活の中から、スポーツと芸術を奪ってしまったら、人生そのものが無味乾燥になってしまうことは誰しもが認めるはずです。この2つこそが人類の「遊び」を昇華させた高度な傑作であることに異を唱える人がないように、「遊び」は子どもたちにだけでなく、大人、つまり人間にとってかけがえのない大切なものなのです。

 それにもかかわらず、「遊び半分」とか「遊び人」といったように、「遊び」は「勉強」や「仕事」と対比され軽く見られたり、否定的に捉えられたりしがちです。


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