介護のデジタル化で見えた、人とのつながりの価値
人力だけでは限界のある介護の現場にとって、デジタル機器の導入は救世主となることがある。高齢者自体は超アナログな場合が多いが、操作がごく簡単であれば軽い認知症患者であっても暮らしに組み込むことができ、生活の質は驚くほど上がる。悩んだり、疲弊したりしないで済むことがあるからだ。
ただ、これらを使うことで対比的に見えてくるのは、高齢者が欲する「人のつながり」のありようである。その先には未来に自分が利用することになる姿も想像される。わたしの老後はどうなるか、どうなりたいか、を考える機会にもなる。
コロナ禍で遠隔介護に行き詰まった実家に、今年6月『お薬ロボット』を導入した。父と母にそれぞれ1台ずつ、計2台がリビングに鎮座している。
このロボットは決めた時間に「お薬の時間です」と語りかけてくれる。1つしかないボタンを押すと、お薬のセットされたカプセルがぽこっと出てくる。また、飲んだことを忘れてまたボタンを押すと、「お薬の時間ではありません」と言ってくれて薬は出ない。所定の時間内に飲めなかった薬はロボット内でよけられるので、朝の薬と夜の薬の順番が乱れることはなく、後で飲めなかった薬の数が確認できる。
薬のインストールは近くの提携薬局さんが2週間に一度家に来て行い、その出張手数料込みで1ヶ月レンタル料が1人約1000円。これで薬の飲み過ぎ、飲み忘れ問題から解放される。
これまで、父は飲み忘れも忘れて「飲んだよ」と適当なことを言って血液検査の数値が悪くなった。母は以前、薬の過剰摂取で心身を壊したことが2度ほどあった。妹と手分けして朝晩電話で服薬確認をしていたのだが、通院から間もないのに「もう薬がない」と言われて愕然とする、あの悪夢は忘れられない。導入から3か月以上経ち、両親ともほぼ毎日薬を飲めていることが分かった。これにより、処方された薬を適切に飲んだ場合の健康状態が把握でき、病院での診療時にも非常に役立っている。
今後我が家でも導入を検討しているもののひとつが実家が遠隔地の場合や、コロナ禍で行き来ができない時に常時オンラインでつながれるツールである。
友人はすでに設置し、鬱症状や認知症状のある親と常時会話できる環境が確保されたという。声で指示を出すことで起動するので、スイッチやタッチパネルなどは使いこなせない高齢者にも操作が可能なのがいい。お互いのリビングがつながりあって、一緒に暮らしていなくても近くに感じることができるらしい。また、会話をしなくても相手の様子だけ見ることができるなど、見守り機能もあるとのこと。単身の高齢者宅などに安否確認用に設置する監視カメラの進化版と言える。
これらは確かに、遠隔介護での困りごとを解決する優れものだ。ただ、頼れる機器と感じるのはむしろ介護する側であり、実は高齢者自体は薬が安定的に飲めることや、オンラインで見守られていることに価値を感じているわけではない。デジタル機器をセッティングしたことで実家に通う手間が省けるようになることは、会って喋って手を握りたい高齢者の機会を目減りさせることにもなる。
お薬ロボットに関しても、初めて家に設置した時に「このロボットには顔はないんですか?」と母が言っているのを聞き、驚いた。そんな、ある意味幼稚とも言えるデザインを求める性格ではなかったからだ。もし顔があり、語りかけてくれたら、ロボットであっても嬉しいのだろうか。社会に出て暮らす時間のあるわたしたちには想像しきれない、在宅時間の長い高齢者の心の深淵を覗いた気がした。
両親のもとを訪れた帰り道の疲労感は、他の何をしてきた時とも違う、ずっしりとした重みがある。それは困ったことが起きることへのストレスだけなく、「本当は毎日一緒にいたいけれど、月に数度しか来ない娘」に会う彼らの心情を受け止める重みだと感じる。こどもが巣立ち、別世帯となることを祝福し、元気でいればいい、こちらのことは気にするなと言っていた親心の裏には、途方もないさみしさがあったことを改めて感じる。長年彼らの中に押しとどめてきたさみしさが、高齢となり弱った時にどうしても子に逆流してしまうのだ。何とも言えない切なさを感じながら、でも自分もこの重さに潰れてしまうわけにはいかない、自分を守ってこその介護だから、と言い訳のような本音が胸を去来する。
介護の足らない部分をデジタル機器に頼る時、それを利用する親の姿を想像し、それに対する自らの生き方を考えさせられる。