「あるべき姿」に拘泥しない
それまでできていたことが少しずつできなくなっていく高齢者の「するべきこと」を補完するのが介護なのだと、一般的には考えがちだ。食事をするべき、薬を飲むべき、歯を磨くべき、お風呂に入るべき。ふと考えると、生活の中には「するべきこと」がなんと多いことか。それらを無意識に済ませて他のタスクに追われているわたしたちには、例えば「お風呂に入る」ことがしんどすぎてやめてしまう気持ちに寄り添うのはなかなか難しい。
通院拒否する父に手こずる時、砂袋を引きずるような彼の足取りに目をやりながらも「行かないと処方箋がもらえないでしょ。歩けないほど足が悪いわけでもないでしょ」とつい強い口調になってしまう自分がいる。「薬がもらえないと尿酸値が悪くなるでしょ、そしたら余計に辛いでしょ、行かないわけにいかないの!」と追い詰めるようにたたみかけると「よく、聞こえない」と言って、座りなおしてしまう父。耳が遠いことを武器にするなんて、話題のドラマの悪役と一緒だ。
それだけではない。宅配の食事が薄味でまずいと言ってなかなか食べようとしないことも悩みの種だった。「バランスよく食べないと体に悪いでしょ、食べないと長生きできないでしょ!」。試食をした時、確かに味付けは父の好みとは遠いなとは思っていたが、いろいろな宅食を探して試して苦労したこちらの努力も汲まずにこんなわがままをよく言うものだという怒りの方が先に立つ。
この一幕を訪問看護師の方に話し、相談した。「どうにかして病院に行かせる手段はないものか」。あるいは「訪問医療に切り替えるか。宅食も食べないんです」と。
すると、看護師は一呼吸置いてこう言った。
「そもそも介護は、誰のためなのか、と考えることがあります。ご本人がやりたくないことでも、やらなければならない、と強いる局面がとても多いからです。元気に長生きしてほしいというのは周囲の願いです。それを、本人のため、と完全に重ねていいのかどうか。
高齢者は目先のしんどさを回避するためにサボっている、我慢が足りない、と思いがちですが、長く生きて充分頑張ってきた方に、その歳で、やりたくないことをさせる必要がどこまであるのか。
安易な道を選ぶのがいいわけでは決してないです。ただ、“こうするべき”という正解はない。本当にお父さんの望むことを軸に、無理をさせないという選択肢もあります」
看護師の言葉は、父の行動をコントロールできずに苦しんでいたわたしに染み入った。
長生きしたいという気持ちが父にそれほどないことは知っていた。80歳近い歳までの過酷な現役生活を走り切り、あとはなるべく「したくないことはしない」という意志があった。無理して聞こえるようになりたくはないと補聴器を拒否し、杖はカッコ悪いと拒否し、美味しいものと自分の家と妻が大好きな父。きっとこの先、介護施設への入居もまっぴらだと言うだろう。
看護師は、こう続けた。「自宅での介護がもっとも幸せ、というのもご本人とご家族の思い込みの場合があります。施設の方が精神的に楽で、安心できるという方もいて、その選択肢をはじめに切り捨ててしまうことはないはずです。ただ、何か起こると大変だからと予防的に施設に入れることまで考えるかどうか。長い人生、お父さんのストレスが少ないことを最優先させながら臨機応変に考えていきましょうか」
自然相手と同じでコントロールするものでない
介護は、明日のことなど予定できない。今日であってもころころと状況が変わる。仕事や生活が予定通りに進む暮らしを営んでいると、不測の事態や筋の通らないことの多い介護にはとりわけストレスを感じるのかもしれない。
思えば、これはまるで、自然相手だ。晴れてほしい日に雨が降り、来ないでほしい台風が来て、降ってほしい雨は遠のく。コントロールするのは自分の方で、自然の状況に合わせて慌てて洗濯物を取り込んだり、イベントを延期したり、節水に努めたりする。しかしわたしたちはそもそも自然の恵みで命を育み繋いでいるのだ。荒れる自然と育てる自然は分けようもない。
介護の本質は、ありのままを受け入れることなのかもしれない。人は自然の一部でありコントロールするものなどではない、という認識のもと、「介護する側もされる側も幸せでいられる状態」を模索していく。これは知っているようで知らなかった、見えてみるようで見えていなかった人間の本質を再発見するための旅路、だと言える。
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