こどもたちが学校に登校できる毎日が再開してしばらく経つ。また不意に自宅学習に戻ることもあろうかという不安を携えつつ、親子がばらばらに過ごす時間があるという日々の健全さを改めて感じる。
コロナ禍の自粛期間中の親たちは、こどもたちが果てしなくだらだらする光景を見続けることになった。長らく親子でいられる状態は珍しく、それを味わうように暮らす良さがありはするものの、自粛が長引くほどに目の前にいるこどもへの関心が強まってくたびれる親も少なくなかったろう。こどもは、親が望む姿でいてくれることなどありはしないものだ。
大学生、高校生、小学生という子らを育てる筆者は、自粛期間中はさまざまな立場にある親たちと状況の報告をしあっていた。
小学生の子を育てる親は、たいていプリプリ怒っている。「起きる時間も寝る時間もどんどん遅くなる」「自分から何もしないで堕ちるだけ堕ちる」「夫は不要不急だから行かせるなって言うけど、塾は要で急!最後に困るのはこどもなのに」など、現場を回す苦労があふれている。そして、小さいこどもを育て、教育熱心な親ほどこうした社会変化への不安は強いことが分かる。
一方で、こどもの年齢が上がると、一緒にいて感じることの質が変化する。大学生の親たちは口を揃えて「食事はまだ?とこどもに言われるたびに、おかしいよと思ってしまう。もういい加減大きいのに」と嘆く。また、下の子が中学生という友人は「受験が終わってみたら、こどもが自立できるか不安になった」とこぼしていた。彼女はこどもの受験を成功に導き、誰もが羨ましいと感じる状態にある。その上で「育て方を間違えたのでは」と悩んでいた。
こうした話に耳を傾けながら、愛情深くいろいろなことを「する子育て」をしてきた親たちが、ある瞬間に「本当にするべきだったか」と振り返り、「しなかったらよかったか」と悩み始めることに気が付いた。コロナ自粛での親子の向き合いは、普段追い立てられるように暮らしていると考えることのなかったことに思いを馳せる機会だったのかもしれない。
今回は、こどもの将来、そして親の将来を考えたところから逆算し、「する子育て」のあれこれから少しずつ離れてみることを提案する。それは決してネグレクトではない。子育ての断捨離である。
称賛される「する子育て」のもたらす弊害
愛も手間も惜しみなく与えていく「する子育て」は、基本的に称賛される。こどもの幸せを願う親の心は尊いものだからだ。親の愛をたっぷりと受けた子は健やかに育つ、ということに疑念を挟む余地はない。愛の量は見えないが、手間の量として“見える化”することで子育てへの熱心さを示すこともできる。
たまに親世代などが「昔はこどもは働き手として親を手伝ったものだ。そんなに手をかけて、過保護ではないか」とぶつぶつ言ったとしても聞く耳は持ちにくい。時代が違う、今のこどもは忙しくて時間がないから手伝ってやらなければ立ち行かない、学校の先生も塾の先生も保護者が手伝ってくださいと言っている、などと「する子育て」を正当化する理由はいくらでもある。
ただ、実は親たちも、「する子育て」がもたらす弊害を察知していないわけではない。こどもが一人でできることを脇から手伝ってしまっているのも分かっているし、それが本質的にはこどものためになっていないのではないか、と頭の片隅で迷うこともあるのだ。しかし自分のサポートとこどもの成功が不可分になっていればいるほど、それを正当化せずにはいられない。
親がこどもの人生からフェイドアウトするタイミングには個人差があるだろうが、遅くなりすぎるとこどもの自立を阻害する。大学で教えていると、「先生が用意しなさいって言わなかったから」「だって〇〇がないからできなかったんです」としれっと伝えてくる学生をたまに目にすることがある。少し先を予想して自ら用意するという発想や努力ができず、できなかったことを人のせいにするという幼稚さからは、「お膳立ては誰かがしてくれて当然」という環境で育てられたことが想像できる。そのまま社会人になり、言い訳のきかない大人社会の中で恥ずかしい思いをすることを、親は決して望まないはずだ。
それだけでない。長引きすぎる子育てによって親の精神的自立も阻害され、こどもが巣立った時に「エンプティネスト(空の巣症候群)」に陥ることになる。筆者の母も子育てに熱心で、娘たちが結婚して家を出た後の鬱症状に苦しんでいた。苦しむ親を見るこどもも辛い。