足立倫行のプレミアムエッセイ

2021年5月2日

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源頼朝はなぜ鎌倉を選んだのか?

 二つ目は、源頼朝が鎌倉の地を選んだ謎である。

 頼朝の父の義朝が平治の乱(1159年)で平清盛に敗れたため、頼朝や約20年間伊豆に流された。その雌伏の時期、頼朝は密かに京や関東の政治情報を入手し、平家側の地元豪族である北条時政の娘の政子と結婚して力を蓄えた。

 1180年、頼朝は関東武士に呼びかけて挙兵した。一時は平家側に敗れたが、三浦半島の三浦氏の水軍に助けられ房総に上陸。

 上陸するや安房、上総、下総、武蔵など関東南部の武士団をまたたく間に束ね、父義朝がかつて住んだ鎌倉に到着した。そして富士川の合戦で勝利し、挙兵からわずか2ヵ月で関東における勢力基盤を盤石のものとしたのだった。

 頼朝が最初の武家政権を作れたのは、当時最強の関東武士団を配下に置いたからだ。

 房総半島から頼朝が武士団を束ねた道筋は、現在の国道16号線エリアである。そして当時の武蔵国の国府である府中から鎌倉街道の上道(かみつみち)を辿れば、鎌倉に行き着く。

 ではなぜ、国道16号線沿いの地域に当時最強の武士団が形成されていたのか。

 馬の放牧地である「牧(まき)」に適した台地の地形がどこよりも多く関東南部に集まっていたからだ。

 鉄砲が登場するまで、馬を操る騎馬集団は最強の武装勢力。東京湾をぐるりと囲む16号線エリアには、三浦半島の台地、相模原台地、武蔵野台地、大宮台地、下総台地などが連なり、古代から多数の「牧」が営まれてきたが、そこから馬術・弓術に優れた関東の武士団が誕生したのである。

 地形の特徴としては、海に突き出た三浦半島と房総半島、二つの半島の存在もある。

 両半島は漁業基地であると同時に、伊豆半島や紀伊半島などと水運で結ばれた交易基地でもあった。平家に敗れた頼朝を真鶴岬から房総半島まで運んだのは三浦半島の三浦氏。水軍を率いる三浦氏がいなければ、頼朝は挙兵どころか命そのものさえ危うかった。

 ちなみに、一の谷の合戦で断崖を馬で駆け下りたのは三浦氏門下の佐原義連。三浦氏は台地の豪族で馬の扱いも得意だったのだ。

 小さな川が山を削り、谷を作り、湿原や扇状地を産み、湖や海へと注ぐ「山と谷と湿原と水辺」がセットになった「小流域」は古来人類が好んで居住した場所だ。獲物が豊富で、大河沿いのような水害の心配もない。

 東京湾を囲む関東の台地群には、台地の縁を削る「小流域」が数珠つなぎになっていて、そこには3万数千年前から人間が住み着いていた。例えば大宮台地にある諏訪坂貝塚(埼玉県上尾市)は縄文時代の遺構だが、同じ区域から旧石器時代、平安時代、江戸時代の遺構・遺跡が見つかっている。

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