足立倫行のプレミアムエッセイ

2021年5月2日

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足立倫行 (あだち・のりゆき)

ノンフィクションライター

早大政経学部中退後、週刊誌記者などを経てノンフィクション作家に。近著に『血脈の日本古代史』(ベスト新書)『倭人伝、古事記の正体』(朝日新書)。

(Marco Ritzki/gettyimages)

 玄関脇の八重ヤマブキが4月下旬に咲き終わった。八重ヤマブキと言えば太田道灌。

 〈七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき〉

 道灌が鷹狩りで雨に遭い、農家に寄り雨具の簑(みの)を所望したところ、娘が山吹の小枝を差し出した。道灌は怒って帰ったが、後に家臣から有名な山吹の古歌(兼明親王『後拾遺集』)があることを聞き、自分の無学を恥じ、以後精進して立派な歌人になった、というエピソードが広く知られている。

 しかし、15世紀の武将、太田道灌で連想するのは、この逸話と江戸城築城くらいだ。

 日本の高校生の多くが学ぶ山川出版社の教科書の最新版にも太田道灌の名前すらない(そもそも江戸以前の関東の記述が非常に僅少だ)。

 ところが、日本史の謎を解く上で、太田道灌の存在がとても重要であることを、今年著者インタビューで取り上げた柳瀬博一著『国道16号線「日本」を創った道』(新潮社)を読んで初めて知った。

江戸は寒村だったのか?

 謎は二つ。一つは、徳川家康は寒村だった江戸になぜ幕府を開いたのかということ。もう一つは、時代が遡って鎌倉時代。それまで長く続いた平安京から、源頼朝が突然関東の鎌倉に幕府を置いたのはなぜなのか。

 最初の謎に太田道灌が関わってくる。

 1457年、家康の江戸幕府開設の約150年前に道灌は、入間川・荒川・利根川の河口の岬に江戸城を築いた。かつて江戸氏が居を構えた場所で、同じ年に入間川(現、荒川)沿いに河越城、旧荒川(現、元荒川)沿いに岩槻城を一緒に築城した。

 江戸城を中心に2つの城を水運で結ぶ扇型の勢力圏を作った道灌は、群雄割拠する関東において頭一つ抜けた有力武将になった。

 だが、時代の行方を早く読みすぎたせいか、主君の扇谷上杉氏により1486年に暗殺される。

 「漁夫の利」を得たのは伊勢宗瑞(北条早雲)だった。早雲の後北条氏は、扇谷上杉氏などを滅ぼし関東最大の武家勢力となった。

 江戸湾の浅草湊、品川湊、六浦湊には鎌倉時代から諸国の船が集まり賑わっていたが、後北条氏時代にさらに江戸湊が加わり、江戸の地は関東の物資の重要拠点に成長した。

 つまり、家康は小田原を本拠とする後北条氏の滅亡後、豊臣秀吉に「江戸という寒村」を押しつけられたわけでなく、江戸の将来性を見抜き進んで拝領した可能性が高いのだ。

 著者の柳瀬氏は、江戸=田舎説は、家康がゼロから巨大都市を作ったという「英雄伝説」補強のための「お話」と説明する。

 以上は柳瀬氏の仮説ではない。1993年に開館した江戸東京博物館(東京都)の総合案内には、1590年に家康が江戸城に入城する前の江戸を「わずかな家並みの漁村」と記していたが、現在の館内表示は「太田道灌が江戸に城を築いて以来の繁栄を継承しつつ、(中略)ここに新しい城と城下町の建設を開始した」と変化している。

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