日本の方針を狂わせた
独ソ戦の勃発
秋丸機関による日本の経済国力分析の結論は40年末~41年初めに陸軍側に報告され、「日本は日中戦争の倍の規模の戦争には耐えられない」という結論を出したという。また、国家総動員体制のための計画・対策を行う企画院も、陸軍省整備局戦備課も、対英米開戦後は日本の物的国力が減少し長期戦には耐えがたいという同様の結論を40年~41年春までに出していた。
これらの判断は無視できるものではなく、41年6月6日に陸海軍統帥部により決定された「対南方施策要綱」では、英米を刺激せずに「綜合国防力を拡充」することが基本的な方針とされた。日本の物的国力では対英米長期戦を遂行できないことは十分認識されていたのである。
しかし41年6月に独ソ戦が勃発することで日本の方針は大きく狂う。長年の仮想敵国であるソ連をドイツと共に攻撃することを主張する「北進論」(陸軍の作戦を統括する参謀本部中心)と、逆に北方のソ連の脅威が薄れるからこそ資源を求めて南方に進出しようとする「南進論」(陸軍省軍務局や海軍中心)とが対立する。
こうした中で「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず」という「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が同年7月2日の御前会議で決定されるが、これは南進論と北進論とを「両論併記」、つまり足して二で割ったものであった。
前述の秋丸機関による英米およびドイツの経済国力に関する報告書は同月に完成し、陸軍上層部に報告されたと考えられるが、それは
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