2022年8月14日(日)

溝口敦のさらばリーマン

2022年1月4日

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溝口 敦 (みぞぐち・あつし)

ノンフィクション作家、ジャーナリスト

1942年東京都生まれ。暴力団や新宗教に焦点をあてて執筆活動を続け、『食肉の帝王』(講談社)で第25回講談社ノンフィクション賞などを受賞。
 

 「知り合いにいい会社がある。そこへ入って、服のことを勉強させてもらえ」

 会社は、まだお洒落な街になる前の代官山にあった。婦人服のメーカーで、営業を担当した。給料は安かったが、仕事柄、服に気を使い、車にも熱を上げた。中古でフェアレディZを買い、毎月の支払いに追われた。成績を上げて手取り額を増やさなければならない。社長の倅(せがれ)が専務だったが、彼と雑談中、給料が安いと言うと、「上げてやろうか」と簡単に言われ、翌月からその通りに上がった。給料って簡単に上がるんだ、とそれまで騙(だま)されていたような気分になった。

 80年、24歳になって恵比寿のアパレルメーカーに転職した。社員10人ほどの小さな会社で、女性向けの高級既製服をつくっていた。給料23万円、ボーナスが年間6カ月。メーカーはようやく問屋への依存を脱却し、ブランドで消費者と直結する時代に入っていた。鴫原さんの顧客にもシャンソン歌手・越路吹雪がいた。より個人のコネと評価、人柄が物を言う時代だった。

 鴫原さんは楽しみながら毎日の仕事をこなしたが、肝心の会社が持たず、入社5年目、85年に潰れた。鴫原さんの夢は、きちんとネクタイを締め、丸ビルのような会社で働くことだった。

 だが、そうした夢からますます遠ざかり、次に服とはまるで関係のない五反田の印刷・製本会社に入社した。生まれて初めての現業部門だった。

 仕事はそれなりに面白かったが、会社は出来高払いの職人システムに切り替え始めた。退職金がない分、月々の支払いは55万~60万円と悪くない。もちろん鴫原さんも手を挙げ、会社の機械を使って、請け負い仕事をこなす一人親方になった。

 もともと自分で決定できる制度が性に合うのか、仕事を楽しみ、結婚し、子供を育て、いつの間にか16年がたっていた。だが2001年、前記の通り会社の移転が決まった。これをしおに鴫原さんは退職、銭湯の番頭になったのだが、義父は思いの外、細かかった。

 「報酬がいくらかまるで決めてなかった。いざ始めると、義父は月給が13万円、そこから私ら夫婦の食費4万円を引くという。とうていやっていけない。女房に、義父にこれじゃやれないから、掛け合ってくれるよう頼みましたが、女房は、父と夫の間には絶対入らないと、やけにハッキリ断りました。

 仕事は好きでした。休みが少ないのも苦にならない。当時、燃料は建築廃材を使ってましたが、角材を短く切る。デッキブラシで浴槽や洗い場をきれいに洗う。ボイラーに火を入れ、廃材を燃やす。番台には女房や義母に座ってもらいましたが、やっているうち、銭湯はつくづく殿様商売だなと気づきました。黙っていてもお客が入った時代の感覚を今でも引きずっている」

銭湯文化を蘇らせる
ゆるキャラとスタンプラリー

 午後4時から11時まで営業していたが、その間、店側は番台に座っているだけ。後は客任せ、何もしない。いくら設備産業とはいっても、営業時間中に何もしないサービス業はあり得るのかと感じた。きれいで熱いお湯、掃除の行き届いた洗い場や脱衣所を提供することは、業者として当たり前。斜陽産業と嘆く前に、もっと打つ手があるはずと直感したのだ。

 3年半ほどたつと、義父が病気で倒れた。鴫原さんが後を継ぎ、江戸川区の銭湯組合にも顔を出すようになった。が、最初は「江戸川区全体の銭湯がまとまってPRしなければ」と提案しても、黙殺された。

 ようやく11年になってゆるキャラ「お湯の富士」のアイデアが採用された。「お湯の富士」と銭湯のスタンプラリーを結んで、新規の顧客開拓と江戸川区の銭湯全体の底上げに結びつけたのだ。13年、こうした活動が評価され、江戸川区の銭湯組合が地域づくり総務大臣賞を受賞した。

 14年、鴫原さんは脊髄を通る動脈が詰まる「脊髄梗塞」という難病にかかって3カ月ほど入院したが、運よく日常生活を送れるほどに回復した。今では組合の経営情報委員として、毎年敬老の日には「お背中流し隊」という小中学生によるボランティア活動や、銭湯を会場にする「東京ニューヨーク(入浴)寄席」などを開催、サラリーマン時代に培ったユーザー目線を銭湯に注ぎ込んでいる。

 鴫原さんは「お客に喜んでもらえるってことが働きがい」と笑顔で語る。いくら内風呂が99%の家で普及しても、銭湯は親しめる社会インフラとして大切にすべきと感じる。

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Wedge 2017年10月号より
がん治療の落とし穴
がん治療の落とし穴

日本の国民病と呼ばれる「がん」の治療は日々進化を続けている。
一方で、推奨されている治療が大病院でも提供されておらず、効果が科学的に認められていない治療を高額で行う医師も後をたたない。
患者が最適な治療に辿りつけるように「見える化」が必要だ。

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