「知り合いにいい会社がある。そこへ入って、服のことを勉強させてもらえ」
会社は、まだお洒落な街になる前の代官山にあった。婦人服のメーカーで、営業を担当した。給料は安かったが、仕事柄、服に気を使い、車にも熱を上げた。中古でフェアレディZを買い、毎月の支払いに追われた。成績を上げて手取り額を増やさなければならない。社長の倅(せがれ)が専務だったが、彼と雑談中、給料が安いと言うと、「上げてやろうか」と簡単に言われ、翌月からその通りに上がった。給料って簡単に上がるんだ、とそれまで騙(だま)されていたような気分になった。
80年、24歳になって恵比寿のアパレルメーカーに転職した。社員10人ほどの小さな会社で、女性向けの高級既製服をつくっていた。給料23万円、ボーナスが年間6カ月。メーカーはようやく問屋への依存を脱却し、ブランドで消費者と直結する時代に入っていた。鴫原さんの顧客にもシャンソン歌手・越路吹雪がいた。より個人のコネと評価、人柄が物を言う時代だった。
鴫原さんは楽しみながら毎日の仕事をこなしたが、肝心の会社が持たず、入社5年目、85年に潰れた。鴫原さんの夢は、きちんとネクタイを締め、丸ビルのような会社で働くことだった。
だが、そうした夢からますます遠ざかり、次に服とはまるで関係のない五反田の印刷・製本会社に入社した。生まれて初めての現業部門だった。
仕事はそれなりに面白かったが、会社は出来高払いの職人システムに切り替え始めた。退職金がない分、月々の支払いは55万~60万円と悪くない。もちろん鴫原さんも手を挙げ、会社の機械を使って、請け負い仕事をこなす一人親方になった。
もともと自分で決定できる制度が性に合うのか、仕事を楽しみ、結婚し、子供を育て、いつの間にか16年がたっていた。だが2001年、前記の通り会社の移転が決まった。これをしおに鴫原さんは退職、銭湯の番頭になったのだが、義父は思いの外、細かかった。
「報酬がいくらかまるで決めてなかった。いざ始めると、義父は月給が13万円、そこから私ら夫婦の食費4万円を引くという。とうていやっていけない。女房に、義父にこれじゃやれないから、掛け合ってくれるよう頼みましたが、女房は、父と夫の間には絶対入らないと、やけにハッキリ断りました。
仕事は好きでした。休みが少ないのも苦にならない。当時、燃料は建築廃材を使ってましたが、角材を短く切る。デッキブラシで浴槽や洗い場をきれいに洗う。ボイラーに火を入れ、廃材を燃やす。番台には女房や義母に座ってもらいましたが、やっているうち、銭湯はつくづく殿様商売だなと気づきました。黙っていてもお客が入った時代の感覚を今でも引きずっている」
銭湯文化を蘇らせる
ゆるキャラとスタンプラリー
午後4時から11時まで営業していたが、その間、店側は番台に座っているだけ。後は客任せ、何もしない。いくら設備産業とはいっても、営業時間中に何もしないサービス業はあり得るのかと感じた。きれいで熱いお湯、掃除の行き届いた洗い場や脱衣所を提供することは、業者として当たり前。斜陽産業と嘆く前に、もっと打つ手があるはずと直感したのだ。
3年半ほどたつと、義父が病気で倒れた。鴫原さんが後を継ぎ、江戸川区の銭湯組合にも顔を出すようになった。が、最初は「江戸川区全体の銭湯がまとまってPRしなければ」と提案しても、黙殺された。
ようやく11年になってゆるキャラ「お湯の富士」のアイデアが採用された。「お湯の富士」と銭湯のスタンプラリーを結んで、新規の顧客開拓と江戸川区の銭湯全体の底上げに結びつけたのだ。13年、こうした活動が評価され、江戸川区の銭湯組合が地域づくり総務大臣賞を受賞した。
14年、鴫原さんは脊髄を通る動脈が詰まる「脊髄梗塞」という難病にかかって3カ月ほど入院したが、運よく日常生活を送れるほどに回復した。今では組合の経営情報委員として、毎年敬老の日には「お背中流し隊」という小中学生によるボランティア活動や、銭湯を会場にする「東京ニューヨーク(入浴)寄席」などを開催、サラリーマン時代に培ったユーザー目線を銭湯に注ぎ込んでいる。
鴫原さんは「お客に喜んでもらえるってことが働きがい」と笑顔で語る。いくら内風呂が99%の家で普及しても、銭湯は親しめる社会インフラとして大切にすべきと感じる。