鴫原和行さん(61歳)は東京・江戸川区にある銭湯の経営者である。都営新宿線・瑞江駅から徒歩12分、「第二寿湯」を経営している。
もともとは奥さんの実家だが、16年前、45歳のとき、会社を辞めてここの番頭になった。以前から義父は「風呂屋はいいぞ、儲かるぞ」と口にしていた。暗に後継ぎになってくれんか、という気持ちだったろう。
銭湯が儲かるか、儲からないかは、妻の実家に行けば分かる。内湯がこれほど普及している今、義父の銭湯も芳しくなかった。だが、銭湯の横に家があり、通勤しないで手伝えるのがいい。ましてローン返済の心配がない。勤める印刷工場が五反田から埼玉県久喜に移転することになっていたから、単身赴任も覚悟していたが、できるなら家族と一緒に住みたかった。
ということで、鴫原さんはそれまでは縁もゆかりもなかった銭湯経営に足を踏み入れた。第二寿湯は義父の父親が創業して、鴫原さんが三代目になる。
転職から16年たった今、経済はもちろん、やりがいやストレスなども含め、総合収支はどうなるのか。
鴫原さんは1956年福島県郡山市の生まれ。父親は郡山商業を出て福島交通に勤めた。同社は政商といわれた小針暦二会長の一大グループ経営で知られるが、鴫原さんの父親は小針会長に近く、恵まれた位置にいたらしい。
だが、父親は鴫原さんがようやく物心つくころ、どういう事情があったのか、会社を辞め、東京・府中に出て婦人服専門の縫製工場を始めた。一時は羽振りがよく、工場も2つ3つと手を広げたが、鴫原さんが小学校に入る前、突然、倒産した。友人と互いに連帯保証する中で、両方とも潰れたらしい。父親は借金1億円を抱えたと聞いた。
これにより鴫原さん一家は離散、鴫原さんも親戚や父親の知人の家に預けられた。小学校時代は親戚の家を転々とさせられ、満足に学校に通った記憶がない。父親は母と別れ、6つ下の妹も別に預けられた。
小学4年のとき、父親がようやく品川の荏原にアパートを借りた。それまでは群馬の工場に勤めたり、縫製の指導員をしたり、かつかつ食いつなぐ状態だったらしい。荏原で家族3人が暮らせるようになったが、父親は若い女性を家に入れた。鴫原さんとは9歳しかちがわない。彼女が継母になった。
品川で中学に通い、部活は剣道をした。高校は授業料が安いというので、川崎が最寄り駅の市立川崎高校に越境入学した。部活でバレーボールをやるなど、人並みに高校生活は送れた。浪人すれば、そこそこ名が知れた大学に行けるか、と考えていたのだが、父親がある日、思い出したように言った。