2022年11月27日(日)

家庭医の日常

2021年12月25日

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葛西龍樹 (かっさい・りゅうき)

福島県立医科大学 医学部 地域・家庭医療学講座主任教授

1984年北海道大学医学部卒業。北海道家庭医療学センター設立および所長を経て、2006年から現職。英国家庭医学会 最高名誉正会員・専門医(FRCGP)。日本プライマリ・ケア連合学会監事。著書に『医療大転換 ─日本のプライマリ・ケア革命』(ちくま新書)など多数。

 Yくんの場合、母親のCさん(K.I.さんの奥さん)に発熱があり、Yくんは仮死状態で生まれたため、口からのどを通して気管内にチューブを入れて肺を膨らませて蘇生された。一方、Cさんはショック状態により集中治療室(ICU)で治療を受けたが、Yくんを産んで2週間で亡くなったという。

 K.I.さんは、医師から「お腹の感染症と出血がおさまらなかった」と説明されたことをかろうじて覚えている。息子は新生児集中治療室(NICU)で経過観察しなければならず、妻はICUで生死を彷徨う状態が続いた果ての死だった。

 K.I.さんは「あの時は何も考えられない絶望状態で、毎日ただ機械的に病院へ通ってたように思う」と当時の様子を私に語ってくれたことがある。

子どもの成長の証も認められず

 YくんはK総合病院小児科の新生児医療チームの懸命なケアによって、一度は危機を脱して自分で呼吸ができるようになった。だが、医療チームの医師は、Yくんの四肢の動きが非対称で、左側の腕と脚の筋肉がつっぱって硬く、逆に右側ではだらっとしていることに気づいた。顔面と頚部(けいぶ)がひきつったように歪み、ミルクの飲みは悪かった。

 いくつかの検査の後で、K.I.さんは当時の担当医師から「Yくんは脳性麻痺の可能性があります」と告げられた。まだ奥さんの死をどう受け止めたらよいか気持ちの整理ができない時で、K.I.さんは、Yくんとの困難な旅路へ「無理やり放り出された気持ちになった」という。

 担当医師の見立ては正しく、その後の発達でも、首が座る、寝返りをする、お座りをする、などの通常節目節目に現れる成長の証はいつになっても認められなかった。

小児科チームによる継続したケア

 ただ、K.I.さんとYくんにとって幸いだったのは、市内に住むK.I.さんの母親と妹が、K.I.さんの身の回りことを手伝ってくれたこと、そしてK総合病院小児科のスタッフによるYくんへの献身的なケアが継続したことだった。担当医師は数年ぐらいで人事異動により交代していったが、引き継ぎはしっかり行われたし、医師よりは異動頻度の少ない看護師とリハビリテーションのスタッフがYくんの病状と成長を継続して見守ってくれた。

 そのほとんどを入院して過ごした新生児・乳児期、そしてけいれんと肺炎で何度も入退院を繰り返した幼少年期を通して、Yくんを良く知るスタッフが継続してケアに関わったことが、K.I.さんとYくんに大きな安心を与えたことは間違いない。

 両親(K.I.さんとCさん)がもともと明るい性格だったこともあり、Yくんは明るくて人懐っこい青年になった。顔をクシャクシャにさせながら全身で表現する笑顔と愛嬌ある受け答えで、小児科の外来と病棟でも、そしてその頃から定期的に通うようになった共同作業所でも、Yくんは「笑顔のYくん」として人気者になっていた。

 ただ、四肢の関節の動きが制限される拘縮(こうしゅく)、意思とは関係なく身体が勝手に動いてしまう不随意運動、糖尿病、高血圧、誤嚥のリスクがあり、外出には車いすと介助が必要で、家での生活を支えるためにはまだかなり医療と介護への依存度が高かった。そして何より、Yくんはもう30歳半ばになろうとしていた。

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