2024年11月22日(金)

Inside Russia

2013年3月10日

 ボロンツォボを愛するドミトリチェンコが、彼女の恨みを晴らすために、フィーリンへの復讐を仕組んだ――。そんな筋書きをマスコミはおもしろいように書き立てた。

 この4人は「白鳥の湖」の呪いについて堅く口を閉ざしたままだ。

雪だるま式に膨らんだボリショイの災い

 不意に名前が取りざたされたボロンツォバのことを、同僚たちは「将来のあるまだ若いバレリーナだ。彼女だって犠牲者だ」とかばう。

 フィーリンの妻で、バレリーナでもあるマリア・プローロビッチはメディアの取材に「夫は事件の動機は、違うところにあると言っている」と述べた。

 「この少女は、見せかけにすぎない。事件の原因はきっと他の所にある」

 マリアの口ぶりは、ボリショイ劇場には、まだまだ“悪魔”がいるとでも言わんばかりの表現だった。

 2008年まで芸術監督を務めた後、米国に移住、ニューヨークの殿堂「アメリカン・バレエ・シアター」で振り付け師を務めるアレクセイ・ラトマンスキーも「事件は偶発的に起ったのではない」と証言する。そして、自らもバレエ団を率いた時の苦節を滲ませながら、こう述べている。

 「ボリショイには、多くの災いがあり、雪だるま式に倫理観の欠如が積もり重なって、事件が引き起こされたのだ」

 ダンサーへの嫌がらせは他にもあり、身の危険を感じ、モスクワからの移住を余儀なくされたバレリーナもいる。フィーリンの弁護士は、こうした劇場関係者への脅迫は数年前から酷くなったと告発している。

 「ボロンツォボのために全てのことが起ったという動機だけで事件は片付けられない」

 襲撃容疑で逮捕されたドミトリチェンコは4月中旬まで拘束されることが決まった。

 1人のトップダンサーと芸術監督が不在のまま、ボリショイ・バレエ団は今後も、公演を続けなくてはいけない。

 しかし、バレエ団にとって何よりも痛手なのは、海外公演も控えた中心人物が2人欠けていることではなく、ドミトリチェンコへの捜査の過程で、新たな不祥事や、新たな被疑者が浮上してくることだ。

 フィーリンもいずれ、ドイツから帰国すると言っている。そのとき、彼は何を語るのか?

 国営メディアは、昨年7月に放映されたドミトリチェンコ、ボロンツォボ、ツィスカリーゼのインタビューを再度、構成した特別レポートを流し始めた。そのとき、最高峰のバレエを語る3人の口ぶりは、情熱と希望にあふれ、ボリショイ・バレエの素晴らしさがにじみ出ていた。

 あどけない少女のような顔立ちのボロンツォボは、「私がバレエを始めたころ、ボリショイのキャリアは夢だったの」と語った。

 ドミトリチェンコはレポーターの問いかけに「今は幸せだ。将来はボリショイの指導者になるんだ」と微笑みを浮かべた。

 特別レポートはドミトリチェンコとボロンツォボが懸命に練習する光景から、ドミトリチェンコが事件を告白する“絶望”の場面へと移り変わる。

 至高のバレエの世界が導き出した光と影。その光彩の格差は、いかに酷たらしく、痛恨の極みで、悲しいものなのか。ボリショイという舞台が人間を狂気に走らせたのであれば、哀れとしかいいようがない。

 いま、ボリショイ劇場は、230年の歴史の中で最大の試練を迎えている。

[特集] 知られざるロシアの実像

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