返還(本土復帰)から半世紀が過ぎた沖縄を、日中関係史の中で素描してみようと思い立ったが、遙か昔の遣唐使・遣隋使の時代にまで遡る必要もないだろう。そこで差し当たって徳川幕藩体制の崩壊が目前に逼り、日本が国際社会に向かって飛び出そうとしていた幕末辺りまで立ち戻ってみることにした。
徳川幕府一行が上海で見聞きしたもの
1862(文久2)年5月、徳川幕府は英国から買い入れた船を千歳丸(せんざいまる)と命名し、上海に派遣した。アヘン戦争によって対外開港され、空前の賑わいを見せる上海での交易の可能性を探るためであった。琉球藩が創設される10年前のことである。
幕府勘定方の根立助七郎を筆頭に全員で五十数人の一行の中には、高杉晋作(長州藩)、五代友厚(薩摩藩)、中牟田倉之助(佐賀藩)、納富介次郎(同)、名倉予何人(浜松藩)ら各藩の俊英も加わっていた。
名倉は千歳丸の上海行きを「寛永以前の朱章船」の復活であり、幕府官吏が公式に「入唐し玉ふは室町氏以来希有のこと」であったと記す。
玄界灘の荒波に苦しめられながらも、長崎出港から6日目に上海に到着した。清国政府と外交関係がなかったことから、幕府はオランダ商館を拠点に貿易交渉に臨むことになる。清国側の要望もあり、清国と交渉の仲介役をオランダに委ねたというわけだ。
上海の街に繰り出した一行の目に映るものの全てが珍奇であり、まるで「夢裡なるかと疑へり」と名倉は驚く。当然、清国人にしても、武士の佇まいは相当に珍奇に見えたはずだ。街を歩けば、行く先々で好奇の目が彼らを取り囲む。腰の日本刀に触ってみたり、ちょんまげを指差して笑ってみたり。清国人が彼らの周りを十重二十重に遠巻きにし、彼らが動くに従って清国人が輪になって移動した。
当時は沖縄が非公式な外交ルート
「滬城(上海)の人吾輩を見て琉球人と目するもの多し」。それというのも「琉球使臣支那の来騁の時」や琉球の「商舶の上海へ来る時」などに、「吾邦人も竊(ひそか)に同行して此に至り同しく琉球人なりと偽」っていたからだろうと、名倉は考えた。ということは武士か商人かは判らないが、鎖国にもかかわらず密かに上海を訪れ「琉球人なりと偽」る日本人がいたと考えられる。
琉球王国時代の沖縄が清国の冊封体制に組み込まれていたことから、沖縄と上海との間に政治・経済面などでの正式な交流があり、このルートを利用し「吾邦人」が上海との接触を試みたいたらしい。とするなら、この時代の沖縄は日清非公式交流ルートの中継基地の役割を果たしていたことになる。
ところで、当時の上海は欧米諸国との交易で賑わう一方、10年余り以前の1851年に遙か南方の広西で起こった太平天国軍の攻撃が近くまで逼っていたばかりか、戦乱を逃れた難民の多くが押し寄せるなど危機と混乱の最中にあった。
そこで「今般東洋人(日本人)来りしは吾朝の大ひなる幸ひなり」との噂が流れる。上海統治の責任者が「長毛賊(太平天国軍)を討伐の為め」に援軍を求めたというのだ。そこで噂が噂を呼び、程なく「日本より援兵として大軍海面を掩て来る」となった。
一行に対して日本からの援軍の到着日時を尋ねる者もいたというから、日本の強兵の来援を上海の人々は首を長くして待っていたことだろう。その後に激化し、現在にまで消えることなく続く反日感情など微塵も感じられなかった〝幸運な時代〟であった。