2024年6月15日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2022年5月5日

 琉球藩創設から7年が過ぎた1879(明治12)年、琉球王国は解体され、清国の冊封体制から切り離され、沖縄県として日本に編入されることになる。

 その後、反日感情が燃え上がるようになると、沖縄は反日・仇日運動のシンボルへと激変を遂げてしまう。

反日教育の象徴と化していく「沖縄」

 千歳丸が上海を離れてから70年ほどが過ぎた1931(昭和6)年春、日本における英語学の祖とされる市川三喜は北平と呼ばれた頃の北京を旅した。市川の北平旅行から半年ほどが過ぎると満州事変が勃発し、対日感情は一気に悪化する。

 千歳丸の上海行きから満州事変勃発までの70年ほどの間に日本は江戸から明治に、さらに大正を経て昭和へと時代が移る。一方の中国では辛亥革命で清朝が倒れ、代わって誕生したアジアで最初に成立した立憲共和政体の中華民国は混乱の中で20年ほどが過ぎていた。

 市川は「北平で新教育によって名高い孔徳学校を参観」し、「日本に対しては国恥地図が小学四年の室にかけてある」のを目にした時の思いを、「阿片戦争やなんかはおかまい無しの、日本を目標としたものだ。よき支那人を作る為には、其自尊心養成に必要なら、国恥地図も是非無いとしても、そんなら各国からうけた恥を大小の順に並べるがいい。さしあたって突かかる目標なる日本に対しての反感を養うべく琉球までを、奪われた、此恨不倶戴天なんて焚きつける事は、教育をして人間を作る機関から切り離し、国家の道具製造場と化す苦々しい態度だと思う」と憤る。

 北平の街に溢れ返るのは、「『実現三民主義打倒日本帝国主義』『誓死不用日貨』『追奸商廃日貨』『廃領事裁判』『外交平等』『不忘済南惨案』等」の激越な反日スローガンであった。

 当時の北平では、「国家の道具製造場と化」した小学校の教室に「国恥地図」を掲げ、「琉球までを、奪われた、此恨不倶戴天なんて焚きつけ」ていた。つまり中華民国の教育当局は清国の冊封体制に組み込まれていたことで琉球王国を自らの領土と見なし、沖縄県としての日本への編入を指して「琉球までを、奪われた」と難詰し、子どもたちを「此恨不倶戴天なんて焚きつけ」ていたことになる。

 本来は中国の一部である「琉球」を日本が強奪したと教育現場で教え込んだ。「琉球を奪還せよ!」である。沖縄は反日教育の象徴と化していたことになる。

 このような教育が行われている現実を前に、江戸の大書家の市川米庵に繋がる名門出身の市川ですら鷹揚に構えているわけにはいかない。「日本公使館は何をしているのか」と声を荒げる。

 とは言うものの日本政府は動かない。どうやらわが外交当局の不作為、無感覚、事勿れ主義、それに危機感と国家・国益意識の欠如する惨状は、この当時から現在に続く悪癖・宿痾のようだ。

 市川の北平体験から判断して、中国は満州事変の段階で「琉球」は1879年に日本に奪われた。だから「国恥」を雪げ、日本から奪還すべきだ――との立場に立っていた。ならば現在の中国の沖縄に対する姿勢は必ずしも共産党政権だからというわけではなく、満州事変以来の歴史を背負っていることになる。沖縄は習近平政権の露骨な対外膨張路線の標的であることはもちろんだが、同時にその前提として反日という伝統的民族感情の記号でもあったわけだ。

ニクソン・ショック時に語られた在日米軍の意義

 市川の北平訪問から40年ほどが過ぎた1972年2月、米リチャード・ニクソン大統領が電撃的に北京を訪問したことで、米中関係は対立から共存へと大きく舵を切った。「ニクソン・ショック」が世界を震撼させ、国際政治の枠組みが大転換を遂げた瞬間である。

 あたかも沖縄返還の3カ月前に当たる。ということは、ニクソン大統領は佐藤栄作政権との間で「核抜き・本土並み」を基本とする沖縄返還に関する外交上の処理を済ませた上で、北京の私邸書斎で待つ毛沢東を訪ねたに違いない。


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