2024年4月25日(木)

デジタル時代の経営・安全保障学

2022年5月15日

透明性と説明責任が不十分な現実

 では、日本におけるDPFの自主的取組みは十分だろうか。

 英語圏などで行われている偽情報対策が日本では十分に実施されていなかったり、日本語ユーザへの配慮が不十分な米国DPFもある。例えば、ツイッターが行う「政府および国家当局関係メディア」アカウントのラベリングは、ユーザに対して悪意ある影響力行使への警鐘を鳴らす重要な取り組みだ。しかし、ロシア政府系メディアとみなされるスプートニクのアカウントは英語圏では"Russia state-affiliated media"と表示されるが、日本語版については「ロシア州関係メディア」と、分かりにくいものとなっている。技術的な要因なのか、何らかの要因で機械翻訳された結果だろう。

 それに加え、日本では継続的事業を展開していないとして、日本で登記しない方針の米国DPFもある。日本での登記がなければ、ユーザが誹謗中傷を受けた場合の司法手続きなどが煩雑化してしまう。

 どういった対策が必要なのか、そのうち政府規制として必要なものは何か、は議論があるだろう。極論をいえば、最低限必要なことは透明性と説明責任を高めることだ。

 他の民主主義国家で実施しているベストプラクティスを日本で実施していないとしたら、DPFはその経営判断の根拠を明らかにする必要がある。もちろん、他国のベストプラクティスがそのまま日本で適用できないのは当然だ。政府規制の有無、市場規模をふまえた費用対効果、人的リソース、言語の問題、既に発生した被害・将来のリスク評価などのさまざまな理由・要因があるだろう。

 問題は適用されない理由が合理的で、日本社会に受け入れられるかどうかだ。

 透明性と説明責任はコンテンツ対策にも当てはまる。もちろん、DPF上のコンテンツ規制については「表現の自由」への侵害にも繋がる恐れがある。しかし、DPFに対して対策の実施状況の公開を促すような規制(透明性レポートの開示義務化)は表現規制のリスクが小さく、最低限必要な取り組みだ。実際、透明性レポートの公開は欧州DSAでも義務付けられ、米国PACT法案の核心だ。

 国境を越えて、事実上の社会インフラとしての役割を担いながら、必要な対策を国・地域で選択的・恣意的に実施することは許されない。

 DPFが社会・安全保障上の問題と認識され始めてから、10年近くが経とうとしている。改めて、国民が(特に米国)DPFの日本での取り組みを評価し、政府規制の要否を含めて検討・行動する時だ。

   
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