14年9月3日には、ソ連軍とモンゴル軍が日本軍に勝利した「ハルハ河の戦い」(ノモンハン事件)75周年にあわせ、モンゴル入り。プーチン大統領は、「ハルハ河での勝利は日本の第2次世界大戦への参戦を約2年半遅らせた。ソ連にとって最も困難だった独ソ戦の時期、ナチス・ドイツの同盟国だった日本はソ連攻撃に踏み切らず、それによって極東・シベリアから西方への部隊の投入が可能になり、それはモスクワ攻防戦で決定的役割を果たした」と語った。
翌15年9月3日は第2次大戦終結70周年を中国と一緒に祝うために、プーチン氏は北京を訪れた。中国では日本が降伏文書に署名した2日ではなく、3日を対日戦勝記念日としている。
プーチン氏は訪問を前にタス通信と新華社通信のインタビューに応じ、「露中両国にとって戦勝記念日は特別の意味を持つ。ソ連は勝利のため莫大な犠牲を払い、中国人民も多大な損害を被った。両国はナチズム・日本軍国主義との闘いで同盟国となり、侵略者らの主要な攻撃をその身に引き受け、激戦の末に勝利し、征服された諸国民を開放し、世界に平和をもたらした。困難な時代の両国国民の相互支援と共通の歴史的記憶は、現代の露中関係の強固な基盤となっている」と語った。
北京で行われた軍事パレードを観閲した習近平国家主席は「中国はロシアとの全面的な戦略的パートナーシップの発展を不断に継続していく。両国は今後も、第2次世界大戦の歴史の書き換えに共に抵抗していくべき」と語ると、プーチン氏は「占領者たちの残虐行為を忘れるべきではなく、将来、同じことが二度と起きないよう、われわれはそれを記憶する必要がある」と返した。
14、15年は歴史カードが切られたと思われるかもしれないが、一方で、国営メディアなどでは露日関係の重要性は盛んに喧伝された。モンゴルでも、中国でのプーチン氏の発言は第2次大戦時の日本の戦争責任をやり玉に挙げる趣旨ではなかった。
一時は日露の友好関係を演出
16年は2回目を迎えた東方経済フォーラムに安倍首相(当時)が出席し、首脳会談では平和条約交渉の前進を確認し合った。一方で、世耕弘成経産相とシュワロフ第一副首相の会談では、経済関係の強化策が話し合われた。このため、ロシアでは日本の姿勢に関するネガティブ報道はほとんどされなかった。
安倍氏はフォーラムを締めくくる全体会議で「ウラジオストクに真の国際都市としてのかつての栄光を取り戻そうと望んでいる。そのような大統領の夢は私の夢でもある。大統領、ウラジオストクをユーラシアと太平洋を結ぶ玄関口にしようではないか」とエールを送った。
プーチン氏はこれに対し、領土問題をめぐる質問に「われわれと非常に良好で信頼に満ちた関係を築いているシンゾーが述べたように、ロシアも日本も独自のビジョンを有し、それぞれが自国の国益のプリズムを通してこの問題を見ているが、問題の解決が必要との一点では全員が一致している。どちらの側も敗北したと感じないような形が必要だ。困難だが、解決策は見出しうる」と語った。
17年は9月2日、第2次世界大戦終結および「南サハリン・クリル諸島解放の日」としてユジノサハリンスクで軍事パレード。択捉・国後、色丹で「南サハリン・クリル諸島解放の日」の祝賀行事が行われた。9月4日にクリル諸島で自動車化狙撃部隊と砲兵部隊が上陸阻止訓練を行う出来事もあったが、9月7日に東方経済フォーラムで日露首脳会談が行われて友好がアピールされ、「対日戦勝記念日」が大きくクローズアップされることはなかった。