主人公が子育てに追われる2002年までに、何があったのか。米国人にとって一番大きな事件は01年の米同時多発テロだろう。だが、その前、西欧中心主義にとって大きなことが起きている。バルカン半島での民族紛争だ。
冷戦崩壊とともにフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(論文初出1989年)が読まれ、この先、世界に大きな政治思想的な展開はないという議論もささやかれた。その後、サミュエル・ハンチントンによる『文明の衝突』(同93年)が冷戦後の世界の組み分けを考える上で言論界の話題になった。だが、世界各地での民族紛争、宗教抗争、大規模なテロがそんな思想を消し散らすように広がっていった。
描かれる5代にわたる母子関係
映画で「1985年じゃないんだから」と言った2002年の主人公レイダは、実際、その言葉を合図のように大きく動き出す。放浪者らしきカップルを受け入れ、彼らの自由さに惹かれ、自身も大きく飛躍する。文学者に戻り、頭脳明晰な教授と不倫関係を楽しみ、夫と娘を捨てて家を出る。
映画は2002年と2020年という二つの時代を往還しているが、もう一つ、1985年という時代が背後にある。詳しくは描かれていないが、作中の会話から、レイダは85年ごろ、自分とは違い美人だったが気難しい母から逃れ、独り立ちしようと試みていた。その自分が今度は02年、自分の娘たちを捨てる。母を捨て、娘をも捨てるわけだ。
だが、成功を手に入れた2020年、一人きりのバカンスで自分の娘よりも少し年上の母とその幼子を見て、娘を捨てた過去、自分の半生の意味にさいなまれる。
映画は一見、レイダ自身の贖罪を描いているようで、実は5代にわたる母子関係を暗示している。レイダの母、レイダ、レイダの娘。さらにはレイダの娘に近い年頃の若い母とその幼子だ。これでは4代にしかならないが、もう一人下にいる。幼子が分身のように可愛がる人形だ。
女の子は小さなころから人形をあてがわれ、その面倒を通して慈愛を学ぶ。人形は女子として生まれた者が宿命的に背負わされる子育てを、物心ついたころから訓練させられる道具でもある。
レイダが幼子の人形を無意識のうちにバッグに隠し、意地悪にもそれをすぐに返さず、持ち続けるのは、「4代目の母」に当たるその幼子を「母としての役割」から解き放とうとしたからではないか。
太古から続いてきた「母としての役割」という重荷が1985年から2002年、そして2020年になっても、なんら変わっていないどころか、悪化しているのではないか。この作品が訴える一つのメッセージはそこにある気がする。
エンディングはここでは語らない。しかし、そこに至るまでの暗鬱なムードは、どんなに成功しても報われない母親としてのレイダの不全感が終始漂っているからだろう。