ホロコースト映画は毎年のように量産されてきたが、収容者たちの寒さ、飢え、不安、恐怖、みじめさが実に生々しく伝ってくる。そして史実に基づいたアウシュヴィッツからの決死の逃亡――。中欧スロバキア、チェコ、独の共同作品「アウシュヴィッツ・レポート」(2020年、94分)を生み出したペテル・べブヤク監督にオンラインで話を聞いた。
時代は1944年4月、第二次世界大戦でドイツが降伏するちょうど1年前。舞台はドイツ占領下のポーランドにあったアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所だ。犠牲者数は今も議論が分かれるが、45年1月にソ連軍の手で解放されるまでユダヤ人ら少なくとも110万人がガス室などで殺害されている。
映画はユダヤ系スロバキア人二人が作業所で行方をくらます場面で始まる。その夕刻、二人の逃亡に気づいたドイツ軍司令官は同じ棟の収容者を極寒の屋外に並ばせ、虐待する。飢えと寒さに苦しむ仲間にパンのかけらを手渡す聖職者の姿が印象に残る。カトリックのフランシスコ会修道士だ。それに気づいた監視役の伍長が、この若い修道士を責め立てる。
アウシュヴィッツに収容されたのはユダヤ人が大半だが、政治犯、ロマ(旧称ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者に加え、聖職者もいた。映画の中の修道士はいわば善人の象徴だが、多くの収容者の中でなぜ彼に焦点を当てたのか。その意図を聞くと、べブヤク監督は「なるほど」という顔をしながらこう答えた。
「このエピソードはキリスト教的な観点で描かれています。(ドイツ軍の)ラウスマン伍長は、誰かが脱走者を手助けしたと気づいているわけです。フランシスコ会は他人を助ける人たちですから、伍長は修道士が強制収容所の他の囚人にパンを配るのを見て、自分が対決する相手、脱走した囚人の情報を聞き出す相手として彼を選んだわけです」
実はこの前段で、ラウスマン伍長は自分の息子が戦線で死んだのを知り、その怒りから一人の囚人を撲殺する場面が出てくる。つまり、彼の残忍さ、彼の中の悪は息子が殺されても変わらないどころかひどくなっている。一方、修道士は拷問を受けても最後まで、人を助ける善人のままであり続ける。その対比の意味は何だったのか。
「罰を待っている囚人の一団とラウスマン伍長の対立をより鮮明にするため、囚人すべてに成りかわる人物としてフランシスコ会の修道士を私たちは選んだのです。修道士はとても大事な登場人物で、彼は実際、収容所に立つ人々すべてを一身に体現しているのです」
収容所という特殊な環境の中で、善悪のあり方は決して覆ることがないと、監督は言いたかったのだろうか。なぜなら、伍長は自分の残虐ぶりを一度として葛藤することもなく、また修道士は生き残ろうと、上辺だけでも嘘をつき、へつらうことがなかったからだ。ナチスのアイヒマンがそう評価さたように、凡庸な人間が組織の圧力で残虐行為を行った例もあっただろう。だが、そうではなく、生まれながらの善人がいるように、根っからの悪人はいる、といういことが画面から伝わってくる。