2024年12月26日(木)

WEDGE REPORT

2021年1月30日

© 2019 RECTANGLE PRODUCTIONS – PALLAS FILM – POSSIBLES MEDIA II – ZEYNO FILM – ZDF – TURKISH RADIO TELEVISION CORPORATION© 2019 RECTANGLE PRODUCTIONS – PALLAS FILM – POSSIBLES MEDIA II – ZEYNO FILM – ZDF – TURKISH RADIO TELEVISION CORPORATION

 なんだろうこれは、と思いながらも画面の中へと引き込まれ、心地よい気分のまま最後まで見ると、映像の意味をあれこれ考えてしまう。

 イスラエルのパレスチナ人、エリア・スレイマン監督の『天国にちがいない』(2019年、102分)は「まさしく映画」と言える。つまり、場面場面がしっかりとした美しい絵で繋がれ、余計なセリフは省かれ、登場人物をまっすぐと真正面からとらえる。

 場面の切り替わりも流れるようで気持ちいい。例えば、イスラエルの地方なのか半砂漠地帯を車で運転している主人公を上空から撮ったカメラは、道路を離れ海へと向かい、なめるように海面を映したかと思うと、上へ上へと真っ青な空へとのぼり、主人公は旅客機の人となっている。バックに流れるのは1960年代から人気を博したエジプトの女性歌手、ナジャ・アル・サギーラの歌う「バム・マーク」というムード歌謡だ。この曲は初めて聞いたし、歌詞もよくわからないが、眠り落ちるときにみる夢のような快感を見る者に与える。そんな流れるようなシーンが、まさに映画らしい映画というところだ。

 19年のカンヌ国際映画祭で特別賞と国際映画批評家連盟賞をダブル受賞しているが、小難しいアート系ではない。終始、ふふっという笑いをもたらしてくれるコミカルな作品で、監督は「パレスチナのチャップリン」と呼ばれているそうだ。

 映画は冒頭、ずいぶんと暴力的な聖職者の登場で始まるが、これは本筋とは特に関係はなさそうだが、そこから「神や宗教を信じちゃあいない」という作り手の姿勢が見える気がした。タイトルは「天国にちがいない(It Must Be Heaven)」だが、別段宗教の話でも、神の話でもありませんよ、との断りのようにも思える。

Elia Suleiman (エリア・スレイマン)。1960年、イスラエル北部ナザレ生まれのパレスチナ系イスラエル人。81~93年、ニューヨーク在住時に短編映画でデビュー。94年にエルサレムに 戻り96年、「消えゆく者たちの年代記」で長編デビュー。2002年の「D.I.」でカンヌの審査員賞と国際映画批評家連盟賞受賞。他に「時の彼方(かなた)へ」など。私小説的な作品が多い。共作に「それぞれのシネマ」「セブン・デイズ・イン・ハバナ」。妻はレバノン出身の歌手、ヤスミン・ハムダンさん。

 場面はすっと切り替わり、一人の男、スレイマン監督自身が家の中の鉢植えに真っ赤なポットで水をやっている。この画面で、あ、この監督は黒澤明や小津安二郎などかつての日本映画の作り手たちのように、形、絵に徹底的にこだわる人だとわかる。

 オシャレな感じのパナマ帽ふうの中折れ帽に紺のジャケット、色や破れに凝らないストレートのジーンズに、たすき掛けの薄いショルダーバッグ。おしゃれで可愛らしい、きちっとした壮年に、冒頭から親近感を持たせる仕組みができている。

 主人公は、木からレモンを勝手に取っていく隣人に言い訳を聞かされたり、その隣人の父親に蛇に救われた話を語られたりするが、自分からは何も喋らない。コミュニケーションを拒否しているようでもあるが、目や表情で巧みに感情を見せる。

 例えば、彼が暮らす家はどうやらつい最近まで、おそらく彼の母親が住んでいたことが、置いてある車椅子や歩行器、古い調度品から窺える。ある朝、彼は母の遺品を全て処分し、業者に持って行ってもらう。その晩、主人公はひとりベランダの椅子に座り、白く濁ったアラックという酒とタバコを交互にのみながら庭の木を見つめている。悲しみや放心などが入り混じった表情が、一種の「魔法」になり、その瞬間から見る者たちは優れた私小説を読むように、主人公の中へと入っていく。

 昨年暮れ、スレイマン監督にZoomを通してインタビューした際、彼はこう語っていた。「この映画を作る一つの理由は、人々が感じ始めている人間疎外を語ることでした。言葉を発してのコミュニケーションが減り、人は考えを共有したり、口に出したりせず、ただ感じるだけになりつつある。それは疎外であり、孤独です。例えば、カップルの間でも、自分たちが感じている寂しさや不安や恐怖について議論することがない。何かを感じても、話し合うことがなくなっているのです。今は人間集団が個々に、バラバラになっていく過程のような気がして、私はそれを伝えたかったのです。もちろん直接的なメッセージという形では出しません。でも、私が演じる主人公は、疎外され、憂鬱な気分(メランコリー)の中で、今はもうない古き良き時代を思っているのです」

 主人公は黙り続けるが、声を出す隣人の父子も「盗っ人」「くそったれ」と互いを罵りながらも、背中を向けたままで、ここでもコミュニケーションは成立していない。

 「人間に今何が起きているのかを 私たちは話し合い、自分たちの中にある苦しみを表に出すときです。それを言うために、私はこの作品を作ったのです」

 20年この方、インターネットが当たり前となり、10年この方、スマートフォンを通してSNSで交流するのが日常となり、人々が文字を打つ(書く)量はかつての6倍になったと言われるが、電話をしなくなった分、口に発する言葉の数はかなり減ったはずだ。ツイッターやメッセンジャーなどチャットの場ではずいぶんと冗舌な人が、いざ面と向かうとほとんど言葉を発しなかったりもする。

 「この世界は、かくも可笑しく 愛おしい――」。チラシのコピーが言うように、映画は世の中のおかしみを描いてもいるが、同時に、現代人の孤独を考えさせるように作り込まれている。

 このままでは、まずいよ。人間がおかしくなっていくよ。監督はそうささやいているのだ。

 細部に現れる、暴力寸前の場面や、何かとよく出てくる警察官の姿も笑えるようで笑えないギャグのように響く。ナザレの街を主人公が歩いていると、大柄な若者たちが棒などを手にこちらに向かって走ってくる。誰かを追いかけているはずだが、一瞬、自分かもしれないと不安になる。理由はわからないが、殴られて目の周りを腫らした男が当たり前の顔で通り過ぎ、次の場面ではレストランで双子らしきイスラムふうの男たちが、出された料理にイチャモンをつけ、主人から酒の無料サービスを受ける。主人公はそれを怪訝な表情で見ているが、やりとりには加わらない。

 パリでは街ゆくスタイルのいい男女がスローモーションで描かれ、主人公は目を見張るが、その後、まるで「コロナの時代」を彷彿とさせるような無人の街並みがかっちりと描かれる。燃え落ちる前のノートルダム寺院も映っている。

 逃げていく男を、セグウェイ( 電動立ち乗り二輪車)やローラースケートの警察官が機械人形のように追いかけていく。ナザレの映像でもそうだが、警察官が意味不明な行動を取るのがこの映画の特徴で、不安な社会の一つの表れだろう。

 しまいには無人のパリの通りに戦車が何台も通り、ニューヨークでは乳児を連れた母親までが自動小銃やマシンガンを肩にかけて買い物をしている。

 タクシーを降りてきたロボットのようにきちっとした日本人の若いカップルから突然、「ブリジットさんですか?」と声をかけられるのも、主人公の違和感を象徴している。

 「パリの街は黙示録的な終末のイメージです。私たちが非常事態下に暮らしているのは何もコロナが起きてからではなく、その前からずっとそうだったのです。どこに行っても検問所があって、軍や警察が住民を支配している」。中国、ロシア、トルコ、ベネズエラほど住民弾圧はひどくなくても、どこの国も多かれ少なかれ国家が民を監視下に置く権威主義的なトレンドが強まっているということだ。

 「(2020年11月に)フランスで警察官の顔を撮影し公表することを禁じる法案が出されたように、警官が好きなように住民を蹴散らす時代になろうとしています。映画で描いたのは近未来ではなく、今起きている現実なのです。それを少し極端な戯画として見せただけです」


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