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2021年6月1日

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藤原章生 (ふじわら・あきお)

作家、毎日新聞記者

1961年、福島県生まれ。北海道大学工学部卒業後、住友金属鉱山に入社。89年に毎日新聞社に入り、ジャーナリズムの道へ。92年に外信部に所属し、 93年にメキシコ留学。帰国後の95年から南アフリカ・ヨハネスブルグでアフリカ特派員、2002年からは、メキシコ市支局長、ラテンアメリカ特派員。08年〜12年までローマ支局長。5 年半に渡るアフリカ特派員時代の取材を元にした著書『絵はがきにされた少年』(集英社文庫)で05年の開高健ノンフィクション賞受賞。著書に、『世界はフラットにもの悲しくて』(テン・ブックス)、『資本主義の「終わりの始まり」―ギリシャ、イタリアで起きていること』 (新潮選書)、『ギリシャ危機の真実 ルポ「破綻」国家を行く』(毎日新聞社)『翻弄者』(集英社)、『ガルシア=マルケスに葬られた女』(集英社)。

『Minor Feelings(マイナー・フィーリングズ)』

 米国でのアジア系住民に対する差別の広がりを知ろうと、アメリカの新聞やテレビ報道に当たっていたら、『Minor Feelings(マイナー・フィーリングズ)』という本に行きついた。それを書いた韓国系アメリカ人の女性で詩人のキャシー・パク・ホンさんの、突き刺さるような率直な物言いに目をみはったからだ。

 今年3月に全米批評家賞を受け、テレビドラマ化も決まったこの本のタイトルについて、著者はインタビュアーでこう答えている。以下は 2021年3月17日に配信された米国のデジタルメディア「VOX」でのジャーナリスト、アレクサ・リー氏の問いに対する答えだ。

 「『マイナー・フィーリングズ』は私の中にある意識を、私自身が知るために考えだした割と緩い言葉です。それはマイクロ・アグレッションと同じではない。もっと大きなものです」

 ここで言うマイクロ・アグレッションとは、1970年にアメリカの精神医学者、チェスター・ピアス氏が提唱した、語り手に意図があろうがなかろうが、マイノリティーに向けられた言葉の中にある偏見や差別、侮辱、否定的な意味合いを指す。パク・ホン氏の言うマイナー・フィーリングズはこのマイクロ・アグレッションとは違うそうだ。

 「例えば私の両親は朝鮮戦争を経てこの国に来ましたが、誰もそんな史実を知らないし気にもとめない、理解しようさえしない。マイナー・フィーリングズとは、そういった自分の現実、歴史が完全に無視された状態とも言えます」

 彼女がこの本で自分の感情をあえて吐露した動機はこうだ。

 「あくまでも自分を慰めるため。私が物を書くのは、いい思いをしている人を苦しませ、苦しんでいる人々を慰めるためだ。私たちアジア系はその両方であって、単なる加害者や被害者ではない。私たちはその間のどこかにいるのです」。だから、差別する側にもいる彼女は「いつも自分の中にあるレイシズムをチェックしています」。

 彼女が書いたことを吟味せずに批判する声もある。

 「あるアジア系アメリカ人を研究する大学教授は、私の本を読まずに、あなたが書いている事は少し古くさいと私に言いました。その教授は「アジア系はもうマイノリティーじゃない」と言いたそうでした。こういう人がいるから、私はこの本をあえて書いた。アジア系の目を覚まさせ、コミュニティーとして集まり、この国での自分たちの居場所について声を上げさせるため」

 米国にいる日系、中国系、韓国系がそうであるように、常にばらばらだったアジア系の集団が連帯し、アジア系に対する差別と闘わねばならない。パク・ホン氏は発言の機会があるたびにそう語っている。

 白人が勝手に描くアジア系についての幻想に彼女はうんざりしている。「私たちはこの国でうまく成功し、レイシズムもなく、みな核家族でみな科学者だ――といった白人の言い分に、私たちの多くはもう、いい気分ではいられない」

 「アメリカ人は共存の仕方を知らない。一方の私たちは人種間暴力を処理する言葉を知らない。そのいい例が1992年の(黒人と韓国系が対立した)ロサンゼルス暴動と、今起きているアジア系差別だ」

 「この国は今よりも多様になり、15年、20年もすれば多数派(の白人)が少数派になる。そのことはもっと語られていい。黒人とアジア系、そしてブラウン(茶色)の人たちはお互いのことを、白人の語りで知っているすぎない。つまり、本当の問題は依然として白人至上主義なのだ」

 インタビューでも、一つ一つの言葉に力がある。そう感じた私はすぐさま彼女の2020年のエッセー本、「マイナー・フィーリングズ」のアマゾン・キンドル版を買い、本にすれば224ページ分を3日で読み切った。

 まさに、読書の醍醐味を味あわせてくれる良書だった。良書には二つのタイプがある。一つは冒頭から書き手の考えにどんどん入り込んでいける「思考の旅」を味わえるもの。もう一つは書き手の感覚、考えに同調する点は同じだが、それがすぐさま自分に跳ね返り、自分の中から芋ずる式に忘れていた記憶がよみがえる本だ。

 パク・ホン氏の本は後者であり、私は読むほどに、自分自身の被差別体験や、嫌悪感、違和感、それと裏腹にある奇妙な優越感をともなうエピソードが次々によみがえった。

 彼女の文章は、読者が長年陰に陽に受けてきた差別、恥ずかしく思ってきた過去、隠してきた事実を表にさらけ出す。それだけ、彼女がアジア系としての居心地の悪さを正直に見せているからだ。

 <いつも自分自身をもう一人の自分が見ていた。「なぜ私はこんなにも被害妄想がひどいのか」と問いながら。(大学の詩の)講座などで私が人種問題を取り上げるたびに、(上の者が下の者に示す)恩着せがましい配慮の壁を感じた。結果、私はその恩着せがましさを自分も身につけ、他の人の民族的な詩を「エスニックすぎる」とバカにした>(筆者訳、以下同)

 パク・ホン氏は常に「アジア系の詩人」とみなされ、作品も何もかもが「アジア系」というアイデンティティーに絡められる。

 プロの詩人になった彼女は、<詩を書くたびに自由を感じ、自分の身体は物質から脱し、アイデンティティーを脱ぎ捨て、自分自身が全く違う人間に成りかわれると想像できた>。ところが、批評家や読者ら、受け止める側はそうではなかった。

 <ジョン・キーツは「詩人にアイデンティティーはなく、詩人は他人の身体で自分を埋める」と語り、ロラン・バルトは「文学は中性で、さまざまなものの合成であり、テーマの逃避先に応じて傾き、すべてのアイデンティティーが失われる罠であり、それを書く身体のまさにアイデンティティーとともに始まる」と書いている。

 でも、私が詩集を発刊し始めたとき、何を書こうと私はアジア系女性というアイデンティティーを消すことができなかった>

 <もしホイットマンの言う「私」が大衆全体を含んでいるとしたら、私の言う「私」はこの国の人口の5・6%しか含んでいない。読者も先生も編集者も「自分の心に真実だと感じることを書け」と私に言うけれど、私はアジア系なので、アジア系という題材にこだわってしまう。たとえ誰もアジア系なんかに関心がなくても。でも私にどんな選択がある? 例えばもし私が自然を書いたら、誰も私に関心を持たないはず。なぜなら、私は自然を書くアジア系とみなされるから>

 <自分の体のアイデンティティーが問題なんだといつも思っていた。でも書くときに、仮に私自身が目の前にいなくても、私は私自身より高みには行けないと気づいた。それが私を一種の絶望へと追い込んだ>

 アジア系という外見、そして、一目で韓国系とわかる姓。詩を書くことで、そんなアイデンティティーから脱け出したいと思っても、自分自身を含めた世の中、社会の目から脱け出すことなど決してできない、ということだろうか。

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