新たなターゲットとなった日本人
この頃、移民を禁止された中国人にかわって多くの日本人移民が到来しつつあった。ただ、日本からの移民はそれまでの中国移民とは異なる受け止められ方をした。当時、清国は弱体化の一途をたどっており、自国民が米国で酷い扱いを受けても有効な対策が打てなかった。
一方、日本は着々と軍備強化を進めており、米国政府としても無視するわけにはいかなかった。加えて、白人列強と同等以上の戦いができることを示した1904~05年の日露戦争が大きな影響を与えていた。中国人移民が、白人から低賃金で職を奪う存在ということでひたすら軽蔑の対象であったのに対し、加えて日本人移民は、脅威の対象としても見られたのである。日露戦争の頃に出版されたサンフランシスコのある雑誌は、日本からの移民の流入を、日本軍の武力を補う「沈黙の侵略」と捉えた。
1906年にサンフランシスコで大地震が発生すると、サンフランシスコ市当局は、校舎が破損したことを理由に、日本人学童をそれまで通うことが認められていた白人学校から追放した。日本政府の強硬な抗議に、時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、サンフランシスコ市に閣僚を送り込み日本人学童問題の解決に尽力せざるを得なかった。日本脅威論を信じるルーズベルトは、日本が油断ならない相手だと認識していたのである。
日米両国政府は、日本人移民問題の根本的解決を目指して1907~08年に日米紳士協定を結び、お互いの国に向けての移民を相互に禁止した。もちろん、米国から日本への移民を望むものは皆無だったため、これは実質的には日本の面子を保つための自主規制であった。
ところが、既に米国在住の者の家族呼寄せは認めるなどの抜け穴があり、それを利用して米国在住の独身日本人男性と日本にいる女性が写真を交換して入籍する「写真花嫁」が大量に米国に向かうことになった。日本髪を結い和服に身を包んだ大量の日本人女性が日々西海岸の港に到着する光景は、排日に沸く西海岸の世論に火に油を注ぎ、外国人の土地所有を禁止する州法が制定されるなど排日運動はますます勢いを増していった。
ただ、第一次世界大戦が始まると、日英同盟によって日本が米国の友好国である英国の側に立って参戦したことで、一時的に排日運動は沈静化する。しかし、それは排日感情がなくなったことを意味したのではなく、第一次世界大戦が終結すると一気に噴き出すことになる。
次回は第一次世界大戦期からの展開を見ていきたい。
バブル崩壊以降、日本の物価と賃金は低迷し続けている。 この間、企業は〝安値競争〟を繰り広げ、「良いものを安く売る」努力に傾倒した。 しかし、安易な価格競争は誰も幸せにしない。価値あるものには適正な値決めが必要だ。 お茶の間にも浸透した〝安いニッポン〟──。脱却のヒントを〝価値を生み出す現場〟から探ろう。