1860年には、当時同州最大の都市であったサンフランシスコで、中国人学童が白人の通う通常の公立学校に入学することが禁じられると共に、サンフランシスコ市立病院への中国人の入院が禁止された。
その2年後の1862年には、カリフォルニア州において中国人労働者との競争から白人労働者を守る州法が成立し、また、米や茶の生産といった中国人が行うと考えられていた一定の職種以外の職業についた中国人には、毎月2ドルの税金を課すとする法律が定められている。
1870年にはサンフランシスコで、中国人がよく用いていた野菜を売るための「天秤棒」の使用を禁止する条例が施行されると共に、市の公共事業で中国人を雇うことが禁止された。また、下宿屋において1人当たり500立法フィート(約14立方メートル)の広さを必要とするという条例も作られたが、これは当時数多く見られた中国人相手の密集した下宿屋をターゲットにしたものであった。
「疫病の原因はアジア人」と決めつけ
中国人に対する差別的な雰囲気が盛り上がる中、ついに1871年、悲劇が起きる。
10月24日、ロサンゼルスのチャイナタウンで、中国人のグループ同士の争いの流れ弾で一人の白人が死亡する事件が起きた。中国人に白人が殺されたということで、500人以上の白人やヒスパニックが集まりチャイナタウンに襲い掛かった。当時のチャイナタウンの人口は200人に満たなかったが、19人の中国人が虐殺され、多数がけがを負った。米国独立革命時に英国兵に5人のボストン人が撃ち殺された事件は、ボストン虐殺として米国の歴史に刻まれているが、この事件は長らく知られてこなかった。
1876年にサンフランシスコ市内で天然痘が発生すると、市の公衆衛生当局は、確たる証拠もないまま、「原因は破廉恥で嘘つきな中国人」が市の中心部に住んでいて「公衆衛生法を無視している」のが原因と決めつけた。コロナ禍に見られるアジア系と疫病を安易に結びつける思考法は、何も近年発生したものではなく、この頃からすでに米社会に存在していたのである。中には、白人は天然痘にかかるが、中国人はかかりにくいなどと述べる公衆衛生官もいた。
この頃、サンフランシスコで出版されていた雑誌には、サンフランシスコ湾に停泊する中国からの船から3人の死神が浮かび上がる挿絵が掲載された。それぞれの死神には「マラリア」、「天然痘」、「ハンセン病」と書かれていた。
1880年のハロウィーンの日、コロラド州デンバーでは3000人もの群衆が「黄色い疫病を撲滅せよ」などと叫びながらチャイナタウンを破壊しつくした。そして1882年にはついに中国人の移民を全面禁止する移民法が連邦議会を通過する。しかし、事態は収まらず、1885年にはワイオミング州ロックスプリングで反中国人暴動があり、28人もの中国人が虐殺された。
1900年にはサンフランシスコのチャイナタウンにあるホテルの地下で中国人の死体が見つかる。死体の鼠径部の腫れから腺ペストが疑われた。市の公衆衛生当局は正式な検査結果を待たずに、チャイナタウンの一角を閉鎖した。白人は自由に封鎖エリアから出ることはできたが、アジア人は一歩も出ることは許されなかった。ここからもあくまで疫病の原因となるのはアジア人であり白人ではないとする考えが根強いことが見て取れる。