米国の黄禍論は、既に白人社会に定着した欧州の黄禍論とは異なった形で発展した。欧州とは異なり、米国には太平洋を越えて早い時期から、外見も生活様式も大きく異なる大量のアジア系移民が押し寄せていた。
19世紀半ばからは中国から、中国からの移民が禁止されてからは日本からの移民が米西海岸に殺到した。出稼ぎ目的で遥々太平洋を越えて来た移民は、賃金が低いなどの条件が悪くても熱心に働いたため、白人労働者の労働条件を悪化させた。遠くにいるのとは違う、今ここにいて自分の仕事を奪い五感を刺激するその生身の接触が、アジア人に対する軽蔑と恐怖の念を植え付けた。
そのような移民との出会いが、概念中心の欧州の黄禍論とは異なる米国独自の黄禍論を形成していったのである。今回は、19世紀半ばの東アジアからの米国への移民の到来と、それによって引き起こされたアジア人差別の歴史、そしてそれが米国独自の黄禍論形成に与えて影響について見ていきたい。
カリフォルニアで暴発した反中国人感情
1848年、カリフォルニアで金が発見されると世界中から一攫千金を求めて人々が押し寄せた(カリフォルニア・ゴールドラッシュ)。日本ではまだ厳しい鎖国政策が有効に機能していたため、日本人が金を求めて殺到するということはなかったが、中国からは多くの人々が遠く太平洋を横断して駆けつけた。
見慣れない大量のアジア人の出現に対してカリフォルニア州がとった対応は素早かった。早くも1854年には、白人の行為に対して中国人が法廷で証言することを禁じると州最高裁が判断している。これによれば白人の不法行為によって中国人が損害を被っても、ほかの白人の証言が得られなければ中国人は法の保護を受けることが出来ないということを意味した。
翌1855年には、米国への「帰化不能者」のカリフォルニア州への移民を認めないとする州法が成立した。当時の米帰化法では、帰化して米国人になれるのは「自由白人」だけとされていたため、実質的に中国人を狙い撃ちした法律であった。また、同じ年、サンフランシスコ市は、帰化不能者がカリフォルニアの港に接岸しようとしている船に乗っていた場合、50ドルの罰金を科すと定めた。
1858年には、さらなる「中国系もしくはモンゴル系」の移民のカリフォルニア州への流入を阻む州法が通過した。これらの法律や判決は、しばらく後に連邦憲法や州憲法に照らして違憲とされたり、取り消されたりしたが、すぐまた同様の法律が制定されるなど、いたちごっこの様相を呈していた。その執拗さに当時の中国人に対する排斥感情の強さが伝わってくる。