2023年2月2日(木)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2022年12月3日

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 去る11月24日、中国新疆ウイグル自治区のウルムチ市で起こったマンション火災が、ロックダウンの影響で消防隊の出遅れを招き、公式見解では10人、ネット上の情報では44人の犠牲者が発生した。以来、中国全土で瞬く間に、過酷な「動態清零(ダイナミック・ゼロコロナ)に対する抗議運動が湧き上がり、一部の参加者はさらに自由を叫び習近平氏と共産党体制を公然と否定する声を上げるなど、1989年の民主化運動以来の事態となっている。

 今般の運動を最も特徴づけているのは、A4サイズの白紙である。何も書かれていないように見えて、現在の防疫や体制のあり方そのものに対し異議を申し立て、そこに字を書き込み主張する権利=言論の自由を求めていることは明らかである。

「江沢民時代」は習近平政権へとつながっている(AP/アフロ)

 しかし中には、具体的な主張が記されているものもある。とりわけ筆者としては「私は外部勢力(境外勢力)ではない。中国公民だ」という文言に注目したい。何故なら、この「外部勢力」という言葉は、去る11月30日に死去した江沢民・元中国共産党(以下、中共)総書記兼中国国家主席の時代以来、中国社会がなぜ一時繁栄し、しかし行き詰まっていったのかを考える上での重要な鍵だからである。

江沢民死去に対する中国と日本の評価

 民主化運動が六四天安門事件によって弾圧された1989年から約15年間続いた江沢民時代、中国は活発な外交攻勢を通じて西側諸国との関係を再構築した。大胆に導入した外資や技術に豊富な国内労働力を結びつけて、史上稀に見る「高速発展」の時代が切り開かれた。

 そこで、中国国内外の反応を観察してみると、少なくない人々が江沢民時代に感謝し、その死を悼んでいる。貧しく、くすんだ風景が広がっていた90年代初頭までの中国は、瞬く間に華やかで活気あふれる世界に変わり、自分自身の努力と創意工夫で大いに「発財」し、「現代化」され豊かな生活を手にすることが出来たためであろう。

 一部の日本のメディアもこのような観点から、江沢民氏について「中国発展の功労者」「江沢民の時代は自由だった」「中国の人々にとって良き時代を創った人」などと表現している。

 習近平独裁に批判的なジャーナリストですら、江沢民氏の死を悼む中国人のツイートをリツイートすることで、江沢民時代は悪くなかったという評価をする向きもある。また、89年の民主化運動が、80年代前半に党総書記を務めた胡耀邦氏の死を契機としていたのと同じく、今般の運動も江沢民氏の死を契機に加速すると見る向きもある。

 しかしそもそも、胡耀邦・趙紫陽時代の精神と、江沢民時代の精神は真逆である。

 80年代は、中国の改革開放の端緒にあたり、政治改革の必要性が明確に意識されていた時代であった。毛沢東が権威と権力を独占し、大躍進や文革といった政治的災禍とともに中国は極貧に喘いだことへの深い反省から、胡耀邦氏はまず政治的に迫害された人々の名誉回復や、開かれた態度による少数民族との和解を進めた。

 胡耀邦氏は、保守派による「ブルジョア自由化反対」や日本の中曽根康弘政権との親しさを理由に失脚したが、後任の趙紫陽氏も引き続き開明的な指導者として、政治や社会の方向をめぐる当時の言論に対して寛容であった(インフレと党官僚の腐敗に手を打ちきれなかったことが民主化運動の導火線となったことは否めないが)。80年代の中国は、もちろん中共体制ゆえのさまざまな限界はあったものの、中華人民共和国史の中では相対的に自由な時代であった。

 しかし、革命元老として80年代も中央軍事委員会主席の座にあり続けた鄧小平氏や(社会主義革命において「政権は銃口から生まれる」ことから、党権力を生み出す原動力としての「党の軍隊」のトップこそが究極の最高権力者である)、彼の信任を受けた江沢民氏は、89年の中国や東欧社会主義圏の混乱、そしてソ連のペレストロイカが91年にソ連崩壊へ至ったことの背後に、発展途上の社会主義国家の身の丈には合わない西側的な自由を見てとった。そして何といっても、一時は「ソ連人」「ユーゴスラビア人」といった意識が広く共有されているように見えたはずの多民族連邦国家がバラバラに崩壊し、一部の地域では激しい民族対立に陥ったことに衝撃を受けた。


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