傭兵集団・服部半蔵の知られざる〝副業〟
服部半蔵(正成)の場合、その出自は伊賀からの傭兵集団だったということもあり、譜代の鳥居家や酒井家とはかなり事情が異なる。その出身は岡崎城のすぐ北側の伊賀で、南の岡崎城や北の大樹寺からは一段低い土地になっている。低い土地というのは普通「山手」に住む金持ちからは敬遠されるから、半蔵もそれほど高い身分では無かった。
ただ、ここでも法則は発動する。伊賀村は伊賀川で南北に分かれるのだが、その伊賀川は下流で南に方向を変え、岡崎城の西の堀代わりになって乙川に流れ込む。乙川もまた、すぐに矢作川に合流する。つまり矢作川舟運を構成する一部であり、また北の美濃へつながる足助街道が走る点でも水陸の交差点という共通性があるのだ。
半蔵の服部氏は有事は伊賀者として戦場で働き、平時は流通業に従事していたのではないか。リッチとは言えなくとも、身過ぎ世過ぎには困らない収入はあったと考えられる。ちなみにこの土地にも、浄土真宗の明願寺というお寺がある。
ドラマで裕福そうに見えない平岩親吉だが
平岩親吉は後に家康の嫡男・信康の傅役(もりやく)を勤め、さらに9男・義直の傅役から尾張徳川家の附(つけ)家老となった人物だ。ドラマではくすんだ色の小袖と袴を着ていて、あまり裕福そうには見えない。
この平岩氏だが、額田郡坂崎郷を地盤とし、祖父は額田郡の代官を勤めた。郡代というだけでも低い身分ではないが、額田郡坂崎郷坂崎村は深溝と岡崎を結ぶ陸路のちょうど真ん中と、菱池沼の水路が交わる、これも水陸の交差点。
その経済的豊かさは相当なもので、後に三河一向一揆を主導する浄土真宗・上宮寺の末寺(円行寺がそれにあたるという)があった。坂崎村の東隣りの久保田村も坂崎号の一部で、平岩氏の本拠だ。
どうですか、平岩親吉もなかなかリッチな家の人間だったことは容易に想像できるでしょう?
裕福な生まれの榊原康政
徳川四天王の一人、榊原康政の榊原氏は伊勢国一志郡の出で、祖父の代に三河国に移った。祖父・清長と父・長政の墓は岡崎の北・上郷町の上野隣松寺にあるというが、康政は最初家康の宿老・酒井忠尚の小姓だったとも伝わり、忠尚は碧海郡上野城主(現在の豊田市上郷町の内)だったから、隣松寺の件も併せ榊原氏のホームはこの碧海郡上野だろう。
永禄3年(1560年)、康政はおそらく桶狭間の戦いの後に家康が大樹寺に赴いた際に拝謁する。このあたりはドラマでも触れられていた。