2024年12月12日(木)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年4月2日

 当時数え13歳。康政は学問・行儀修行中だったのだろうか。大樹寺から遠くない範囲に榊原屋敷があったものと考えられる。

 酒井忠尚が在城した上野城は面積が2500坪以上と、松平家発祥の松平城(館)が800坪足らず、織田信秀の終の棲家となった末森城が1200坪余りだったのと比べても広大な城だった。何より忠尚は後に三河一向一揆側に立つことで、浄土真宗と密接な利害関係で結ばれていたことが窺われるから、上野の地も裕福な土地だったのだろう。榊原康政もそれなりの経済力を持つ地侍の生まれだったに違いない。

大久保忠世の本当の姿

 さあ、問題の大久保忠世だ(笑)。彼のご先祖様は下野国から移住し、上和田妙国寺(岡崎城の南)の北側の上和田城に住んだと伝わる。

 妙国寺は法華宗で、大久保氏はその大檀那だった。この妙国寺には、三河一向一揆の際に家康が本陣を置いている。

 上和田は鳥居忠吉の項で紹介した渡の、東海道の東隣りにあたる。渡の富は隣りの上和田も潤したことだろうし、寺の大檀那になった大久保氏は当然スポンサーにふさわしい財力を備えていた訳で、すぐ隣りに浄土真宗の大立者・針崎勝曼寺・土呂本宮寺があるのも、富貴の地らしい。大久保忠世は決して擦り切れくたびれたような衣類を身につけていたわけではなさそうだ。

儲かる寺院を傘下に置く石川数正

 そして、常に身近で家康を補佐する、(ドラマでは)渋い渋い石川数正。

 彼の先祖は下野国から移住して三河国碧海郡小川に住み、小川城を本拠とした。浄土真宗の信徒で、蓮如と共に三河へ赴いたという伝説もある。

 三河国の浄土真宗のリーダーとも言える野寺の本証寺は小川郷の内にあり、まさに真宗のホームグラウンドというべき土地。ただ、その土地は台地のため田が無く畑のみで、貧しい。本証寺は浄土真宗の三河触頭三ヶ寺の筆頭であり、水が乏しい台地上なのに水堀を巡らした城郭「本証寺城」と呼ばれる寺を本拠としていた。

 『三河物語』にも「野寺之寺内、土呂・鍼崎・野寺・佐々き(三河四ヶ寺・一向一揆の主力)」などとして登場するが、野寺=本証寺の傘下として挙げられている寺を順次見てみよう。

 まず土呂本宗寺。寺の西には矢作川、南には菱沼池がある。このため土呂は船着きの湊として繁盛し、「近郷にての都」と呼ばれるほどだった。その栄えぶりのため往古は「都路」と書かれたというから半端な富貴ではなかったようだ。三河一向一揆鎮圧で家康の重臣・石川家成が本宗寺を破却するのだが、その後家康はこの地に新市を開かせている。

 以前茶師・上林政重について書いたことがあるが、その政重が新市の責任者とされており、本宗寺の繁栄を引き継ぐ目的の新市だったと推定できる。

 次に針崎は岡崎から西尾に向かう道の途中で、針崎勝鬘寺は70の末寺を持つ。矢作川・男川・作手道(三河北東部から信濃方面へ向かう道)が近い。つまりここも水陸交通の要衝だ。

 佐々木(佐崎)には上宮寺がある。

 以上、いずれも大いに儲けることが出来る寺院を傘下に置いていたため、小川の本証寺は貧しい土地でも周囲からマネーを集める巨大な集金装置として機能し、そのマネーで水堀の利水事業もおこなっていたのだろう。その門徒の石川氏も、余慶に与っていた筈だ。石川数正もリッチな一族のひとりだったと考えて良いのでは?

 以上、紹介しておきたい家康家臣はあと2人残っているが、それは次回に回しておこう。

【参考文献】
『愛知県の地名』(平凡社)
『新訂寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
『家康の臣僚 武将編』(中村孝也、人物往来社)
『日本城郭大系9静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社)
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