マレーシアでは合法的には働けないため、ロヒンギャの人たちは工事現場や建設現場の日雇い労働で働いた。身の安全は保障されているが、難民扱いのため移動は制限され、公共のサービスは十分に受けられない。差別もあった。
そして若者はここでも満足な教育を受けることが出来なかった。そうした状況で多くのロヒンギャがよりよい未来を目指して米国に向かうことを決断する。
「映画2本は作れる」壮絶なストーリー
シカゴのコミニュティセンターで働く男性は「みんな壮絶なストーリーを持っている、映画2本は作れるよ」と語る。ミルウォーキー在住のサマド・ラフマーン氏(37歳)は自身が米国まで来た経緯を話してくれた。
「ミャンマーにいた時、学校の教室でロヒンギャは後ろの席に集められた。最初の日に教師から『お前はロヒンギャか、なぜここにいる、サウジアラビアにでも行け』と言われた。将来は医者になりたかったが、教師から『ロヒンギャだから無理に決まっているだろう』と言われた。下校するときは仏教徒たちにいつも殴られたりタバコの火を体に押しつけられたりした。親を安心させるために学校に行くふりをしてさぼっていた。
2012年、18歳の高校生の時にスマグラー(密航者)にお金を払い、ミャンマーを発った。最初は自分の他に30人ほどのロヒンギャがいたが、マレーシアに着くころにはいつのまにか10人にまで減っていた。山を越えるときに沢山の死体や骨を見た。叫び声が聞こえると誰かが崖から落ちたのだと分かった。他の人に構っている余裕などなかった。
タイをバスで移動していた時に、警察による検問があった。自分は疲れ果てて後部座席の小さな隙間で寝ていたので運よく一人だけ見つからなかった。他の人はどこかに連れていかれた。バスを運転していたタイ人のドライバーは自分がいることを警察に言わないでくれた。
マレーシアで2年を過ごし14年に米国にやって来た。現在は妻と3人の子供と幸せに暮らしている。辛い思いをしたけれどやっぱりミャンマーが恋しい」
米国文化に馴染み、経済的に自立
2010年代初頭からこのような経緯で徐々に米国に移住するロヒンギャが増えていった。現在米国中部の都市シカゴとミルウォーキーには500家族近く、およそ2000人以上のロヒンギャが暮らしていると言われ、現在もその数は増え続けている。
もともとシカゴは移民に寛容で雇用や住居の手配、金銭面の援助など行政からのサポートも充実している。ムスリムのコミュニティも存在していたため、定住化が進んだ。
しかし米国でも最初は言葉や文化の違いなどさまざまな障害にぶつかる。多くのロヒンギャがこれまで満足な教育を受けていなかったため、英語の読み書きが出来ず生活の基盤を作るのに苦労したという。
イスラム教に対する偏見もあった。冒頭のジャハーン氏の次男ラフィ氏(17歳)は最初に小学校へ登校した日にクラスで自己紹介した。教師にマレーシアでは何が有名かと尋ねられたので、ツインタワーだと答えたら、「ツインタワー(ニューヨーク)はあなたたちがもう壊したでしょ」と言われた。その時から学校に行くのが苦痛になったという。
それでも多くのロヒンギャの人たちは今まで与えられなかったたくさんの恩恵を享受し、初めて人間らしく生きることができたという。商才に長けていると言われるロヒンギャは米国で必死に働き成功を収めた者が多い。