国内の山林を活かせば、日清戦争の賠償金など取るに足らない
1902年に庄三郎は広島を訪れて講演を行っている。そこで日清戦争を言外に批判した。戦争は同砲の壮士だけでなく、清国の幾万人もの兵士の命を犠牲にし、また砲塁、軍艦など社会インフラも破壊した。勝ち取った領土の一部(遼東半島)も三国干渉で返すことになった。5年かけて得られた賠償金は年間にすると6000万円に過ぎないが、国内の山林という地上の利を活かせば、毎年二遍も三遍もそのくらいの富は得られる……と主張した。
「死蔵されている山林を活かせば、日本を2つ取るくらいの価値は生み出せる。毎年戦争に勝つのも同然」、それには兵隊も弾丸も行政官も必要ない。また領土を増やしても、それを護持し経営する経費がかかる。それよりも国内を開発するべきだ……と訴えて、林業の潜在的な価値を知らしめようとしたのである。
日本が得た賠償金の額は現在知られている額と少し違うが、庄三郎は、木を植えて山を森で覆うことは、防災などの環境面に加えて天賦の資源による国力増強であり、林業を興すことで山村地域の住民の暮らしを支える経済策でもあると考えていた。
これは「土倉の年々戦勝論」と呼ばれて一世風靡したそうである。
おかげで全国的に「林業は吉野に学べ」とブームになり、庄三郎の居住する吉野の川上村には10万人とも言われる視察者が訪れたという。林業家ばかりではなく、政治家や財界人、さらに軍人、研究者、そしてフランスからの視察者もいたという。その頃の川上村は、豊かな山村のモデルになっていたのかもしれない。
残念ながら、それから100年以上が経ち、林業も山村も隔世の感がある。現在の林業は補助金なくして成り立たない有様で、山村はどこも過疎が進行し存亡の危機にある。山は緑に覆われているが、その内実は怪しい。手入れせずに放置されたまま、あるいは伐ったまま植えられない山も増えてきた。豪雨のたびに各地の山が崩れて大災害を頻発させている状態だ。
しかし潜在的な森林、そして林業の価値は今も変わらない。いや気候変動対策や生物多様性維持などでも森林は重要視され、より高まったと言える。改めて木を植えよ、林業で山間地域を元気にすべし、と訴えた山林王の思いに目を向けたい。