このままでは失われる検察への信頼
何が問題かというと、現状のまま仮に再審公判であくまで検察が争うとなると、検察への世論の印象が悪化し、検察への信頼が崩れる危険があるからだ。どうしても有罪を立証したいのであれば、社会を十分に説得できる根拠を説明するとともに、一体誰がその判断を行ったのかを明確にすべきだ。
検察の説明不足ということでは、今回の事件にとどまらない。例えば、後に厚生労働省事務次官になった村木厚子氏は、2009年に冤罪の被害に遭っている。
この際には、自白を迫る強引な取り調べに加えて、証拠の捏造なども行われたとされている。結果的には無罪判決に至ったわけだが、検察として控訴を断念した後に、謝罪会見は行ったものの不祥事として経緯を説明することはなかった。
強引な捜査に加えて、露骨に「旧体制の既得権」を擁護してきたという評価もある。04年にファイル共有ソフトに絡む著作権法違反で一人の技術者が逮捕・起訴されたウィニー事件や、05年に起きた当時ITベンチャー企業の社長をしていた堀江貴文氏らを決算報告に虚偽があるということで証券取引法などの違反で逮捕・起訴したライブドア事件などは、今から考えれば、「まだ日本がソフトウェアやネットワーク関連の産業で、時代の先端に立てる可能性があった」時代に、その萌芽を潰したという評価がある。つまり、歴史的評価に耐えうる起訴であったかどうかということに、改めて異論が出ている。
本稿は、こうした一連の検察の判断を批判するのが目的ではない。問題は検察への信頼が揺らいでることだ。
社会には「どうせ、検察は終身雇用の共同体であり、先輩検事の判断を擁護し続ける中では、現役の検事には過去の冤罪を批判する自由はないだろう」とか「旧体制を擁護し、イノベーションが国内から起きたら潰すのが検察の姿勢だろう」などといった、冷笑的な世論が徐々に拡大している。これは日本の法秩序にとって大きな危機である。
政争の具となる危険性も
検察に求めたいのは、とにかく説明である。筆者は検察が身内を守るために正義を歪めているとか、既成の秩序を擁護して改革を潰すように意図的に活動しているとは思わない。そうではなくて、罪刑法定主義に基づき、自分たちとして「ある確固たる正義」に基づいて行動しているのだと思う。
問題は、その「検察の正義」が時代や社会の求める「正義」と乖離しているかどうかである。ただ、それ以前の問題として、そもそも検察が「検察の正義」を全く語ってこなかったのが問題である。
今からでも遅くない。検察は、検事総長の会見を頻繁に定例化して自由な質疑応答を含めて行うとか、主要な判断に関しては担当検事が社会へ向けて説明を行うなど、透明性を高めるべきだ。