2024年5月6日(月)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2023年6月10日

 神戸の児童殺傷事件に関する事件記録の全てが廃棄されていたというニュースは、全国に衝撃を与えた。歴史的な意味もあるし、異常な犯罪の事例として、あるいは実行犯に関する精神医学の事例として、貴重な資料が永遠に失われたのである。法医学、法学、医学、行政それぞれの観点から見て、損失のインパクトは計り知れない。

(James Woodson/gettyimages)

 問題はそれだけではない。今回の事件で明るみに出たのは、裁判所というのは裁判記録について、保存期間が終了すると原則として廃棄することにしていたという事実である。例えば、重要な憲法判断が下され、判例が変更された裁判などでも廃棄されたものがあるという。

 最高裁判所は、今回の批判を受けて「裁判記録を当分の間、廃棄しないよう全国の裁判所に通知」したそうである。この「当分の間」に、制度が改正されて記録については原則保管となることが期待される。それはともかく、このような運用、つまり何でも破棄してしまうという体質の背景には、一体どういった考え方があるのだろうか。

確定判決に与える絶対的な権威

 1つ目は、確定判決に関する硬直した権威付けという体質だ。確かに判決が確定するということの意味は重たいし、その判決の権威は憲法や関連法規によって規定されている。けれども、いかなる判決であっても、時代の変遷により評価が変わることはありうる。そして、決定的に評価が変わってきた場合には、判例は変更されるであろうし、その前に根拠となる法律が改正がされることもあるだろう。

 そうした判例変更にしても、法改正にしても、その検討の中では必ず旧法による類似の確定判決の裁判記録は重要な資料になるはずだ。そんなことは、法律の専門家であれば、誰でも想像がつく話であるが、そのような常識的な観点を超えた部分で、確定判決は確定したのだから資料は捨てて構わないという行動が受け継がれている。そこには、やはり確定判決の権威を盲信する姿勢があると言わざるを得ない。


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