筆者が恐れているのは、このまま検察への悪印象が増幅していく中で、例えばポピュリズムの政権ができたときに、韓国のように政権が指揮権を乱発したり、検察上層部の人事が政争の具とされるような混乱が起きる可能性である。
また米国でも検察は混乱している。米国の検事総長は担当大臣である司法長官が兼務し、主要な判断については自分の言葉で詳細な説明を行うのが通例である。だが、この方式も、現在のような左右がイデオロギーで分断された時代においては、機能不全に近い状態になっている。
「検察しての正義」を語る時
その意味で、検察が独立した権限を持ち、法務大臣も指揮権発動を基本的に控えるという日本の体制には、一貫性と安定性という点でメリットがあるのは事実だ。だが、このまま大事な判断について社会に向けて説明することなく、疑念ばかりが拡大するようなら、制度は簡単に崩壊してしまうことも考えうる。
袴田巌氏の再審公判で「有罪立証」を進めるのは何故か、村木厚子氏などに対して自白強要を行い証拠捏造までやったのはどうしてなのか、ウィニー事件の金子勇氏やライブドア事件の堀江氏をあそこまで追い詰めたのは何故か。そして、そのような検察の姿勢を支える「検察としての正義」とは何なのか、今こそ明確に語られなくてはならないと考える。