岡田監督の戦い方は当時から「普通にやる」と不変だった。あの年の日本シリーズもエース井川慶投手を開幕戦に投げさせ、その後も奇襲はなかった。
「負けが続くときには、監督が動いて流れを変える」というような空気に左右されることなく、岡田監督は普段通りの戦いを臨んだ。しかし、歯車が最後までかみ合うことなく、チームは4連敗。その後、第一次政権の岡田監督がもう一度、日本シリーズの舞台を踏むことはなかった。
選手と監督、2度の「三行半」を経験
08年は開幕から絶好調で「優勝確実」とまで言われた。盛り上がる周囲が「優勝」と舞い上がることを嫌い、あくまでレギュラーシーズンを全うしようとした。
しかし、猛虎と一心同体の関西マスコミが、ペナントレース独走の阪神を放っておくはずがなかった。連日の一面記事は優勝へのカウントダウンのように盛り上げ、旧知の担当記者も頭の中は「優勝予定原稿」や「優勝時の手記をどの選手に依頼するか」で一杯のようだった。
結果はしかし、北京五輪に送り出した主力のけがなどもあり、巨人の猛追を受けて大失速。大逆転でひっくり返されて2位に終わると、指揮官は潔くタテジマのユニホームを脱いだ。
そんな岡田監督に白羽の矢を立てたのが、同じ関西に本拠地を置くオリックスだった。
10年に就任し、チーム復権を期待されたが、5位、4位、6位と振るわなかった。就任3年目の終盤に〝事件〟は起きた。
12年9月25日。球団とはシーズン終了まで指揮を執ることで一致していたが、岡田監督はいつも通り、ポロシャツ姿で京セラドームに行くと、試合前に突然の休養を伝えられた。事実上の解任で、紙を渡されただけだったという。
当時、岡田監督を直撃した記事では衝撃を物語るように「急どころちゃうよ。俺だって試合するつもりで球場に来たんやで。監督室に入ってユニホームに着替えて“さあ、これから練習”っていう時に村山さん(球団本部長)が来て紙(プレスリリース)を1枚渡された。3~4行の紙やで。いたのは2分だけやで」(12年9月27日配信の東スポWEB)と答えている。
非情な扱いは阪神の現役時代にもあった。早稲田大学からドラフト1位で入団し、85年は不動の5番打者として日本一にも貢献した岡田氏が阪神で最後にプレーしたのは93年。前年の92年は先発投手陣が安定し、打線には若手だった新庄剛志氏(現北海道日本ハム監督)や亀山努氏らが台頭したシーズンだった。
岡田氏はシーズン序盤に代打を告げられ、出場機会も激減。93年はさらに苦しいシーズンとなり、オフに「体力の衰え」を理由に事実上の戦力外扱いで自由契約となった。そんな岡田氏を獲得したのが、オリックスを指揮していた名将、仰木彬氏だった。